学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

言葉の魔力 その1

言葉を口にするまでは、あなたが言葉を支配する。しかし、いったん口にしてしまえば、今度は言葉があなたを支配する。

僕はこの言葉を戒めとして心に留めている。人と人との信頼関係は社会の基本に位置するものだが、その信頼関係は誠実さを基調としながらも、やはり、言葉にして伝えなければ伝わらないものであるからだ。そして、誠実さを表す指標として、「嘘をつかないこと」が真っ先に挙げられると思っている。

「嘘をつく」ことには2つのパターンがある。一つは意図的に嘘をつくこと。もう一つは思いもよらず嘘をついてしまうこと。誠実かどうかという視点で言ったら、意図的に嘘をつかないことしか含まない。しかし、意図はしていなかったとしても、「言ったことを守らない」という、結果的に嘘をついてしまうこともまた、信頼関係を損なうものになるのである。この場合、誠実ではあるけれども、たとえば忘れたとか後回しにしてしまったとかである。

しかし、どのような理由であれ、「言ったことを守らない」ことが一度ならず起きてくるのであれば、その人に悪気がなくても、誠実な人柄であっても、社会的信用は失われていくことになる。この場合の「社会的」というのは、対人関係と同義である。だから、社会的信用を失うことを恐れて、忘れないようにメモを取ったり、最初に取り組んだりというような工夫をするものなのである。

とはいえ、親しい間柄、気の置けない間柄では、往々にして、そうした「宣言したこと」を反古にしてしまいがちになるのも、人の常であろう。その関係性に甘えて、やや厳しさを緩めてしまう。とりわけ、親と子の間では頻繁に起こることでもあろう。「部屋を片付けなさい!」「あとでやる!」「いつもそう言っててやらないじゃない!」というような遣り取りは、誰しもが思い当たるのではなかろうか。

しかし、子どものうちならばまだしも、大人になってもこれではいただけない。というのも、こうしたことは自己管理ができていないことを意味するからだ。自己も管理できないものに他者を管理することはできないし、組織や家族を背負って立つこともできまい。物理的には可能でも、そうした上司や親を持ったら、確実に部下や子どもは迷惑を被る。ふさわしくない人がふさわしくない地位にいるから起こることである。

結局は、自分自身に対してどこまでシビアに接しているかという問題になる。社会的関係、すなわち相手のいる対人関係のことではあるが、その本質部分は自分自身の内面での出来事なのである。自分自身に嘘をつかない。自分の言葉に責任を持つ。たったこれだけのことではあるが、非常に難しい「行為」である。他者が介在しないところで自らの言葉を「ま、いっか」で済まさない厳しい自律を持った人こそ理想である。

最後に一つ。だったら「言わない」という態度を採る人がいる。それはそれで構わないが、そういう人には行動がついてこないという側面を見逃してはならない。行動がない人も、結果的には信用を失う。また、「できることだけ言う」も卑怯な心の在り方ではなかろうか。臆することなく言葉に表し、その言葉を必死で実現しようと足掻きもがく苦労と努力の中でこそ、人は成長するものだと思う。だから、臆することなく積極的に言葉にした後は、がむしゃらに行動に移していくのがよいだろう。