学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

豊田真由子議員の騒動

「お前、頭がオカシイよ!」

「支持者を怒らせるな!」

「このハゲー!」

「ちーがーうーだろ!」

「生きてる価値ないだろ」

 

この一週間、テレビから流れに流れ続けた豊田真由子衆議院議員の暴言。暴言に加えて暴行までしていたという。文部科学大臣政務官まで勤めた元官僚の、あまりにも品のない言動だが、昨今の国会議員のレベル低下もあってか、あまり驚かなかった。むしろ「またか」という不祥事議員の再来へ呆れた。

この騒動を通して、僕は2つのことを感じた。

1つめは、地位と自分自身との混同が著しいということだ。これはなにも国会議員に限ったことではないが、地位の高さが自分自身という人格の高さと勘違いする人が多いなぁということだ。地位の高さはその職分や職能に拠るものであって、その地位にある人の高さを意味しないということが分かっていない。組織は統率と責任の所在という必要性から地位の上下が存在するが、人としての上下は存在しない。

つまり、ひとたび地位を離れれば「等しい人格を持った人」でしかない。会社の社長は社外ではただの人であり、社外の人に対して社長として振る舞うことは適切ではない。会社の中で秘書や部下に何かやってもらっている立場であっても、個人として店を訪れればただの客である。そこで踏ん反り返っていても通用しない。

地位とその人の高さが一致していたのは、身分制社会の頃である。身分制社会にあっては地位の高さとその人の身分の高さは一致していた。それは家柄によって就ける職位が決まっていた時代の話であって、現在は身分は皆平等なのである。ここを勘違いして、地位の高さを己の身分の高さと混同してしまう幼稚さが問題なのである。

就いている地位の重い職分を果たしているところから、その人個人への尊敬が生まれることはあるだろう。しかし、それは周囲からの自然発生的なものであり、当該人物が自分という個人への尊敬を要求できるたぐいのものではない。むしろ、地位がなくてもその人格に尊敬を受けるような生き方をしてこそ、貴人であると言えるだろう。地位は後から付いてくる程度のほうがよい。

2つめは、これが男性議員であったならどうだったかということだ。もし仮に男性議員が「このブスー!」とやっていたら、騒動はこれで済んでいたようには感じられない。野党もマスコミも、もっとかしましくやっていたのではなかろうか。1つにはこれほど再生された音声がテレビから流れ出ることはなかったように思う。米イージス艦事故が起きればイージス艦沈没シーンを含む映画の放映を自粛するような過敏さを示す一方で、「このハゲーッ!」は何度も何度も流れた。

男女平等を常日頃叫ぶ人ほど、静かであるようにも感じる。ヒステリーを発症して、それが報道されるや体調不良で入院する議員に対する追求も弱い。これが男性議員なら押しかけて詰め寄って説明責任を果たせとか、自民党幹部への直撃をしていただろうと憶測をしてしまうのは、僕だけであろうか。女性議員だからこの程度で済んでいるという「性差別」を、この騒動から感じてしまうのである。

男女平等で女性の社会進出・参画をいうのであれば、こうした不祥事の際にも性差別は出すべきではない。仮に女性ゆえに追求が緩くなっているのだとしたら、それこそ男性への逆差別であり、フェミニストは女性が軽んじられているとして豊田議員を徹底追求していくべきとの声を上げるべきだろう。権利を主張するときだけ声高に叫び、義務を果たすべき(今回の例では説明責任や謝罪会見)ときにはトーンを落とすのであれば、その人こそ女性蔑視・女性差別主義者である。

一貫性を持つということは人からの信頼を得る一番の誠実な道であるが、身内や自分自身にも等しく価値基準を適用できなければ、綺麗事を言うだけの人になる。他者を批判するときには、その批判が自分自身や親しい人に向けられても同じ発言を出来るかと自問する必要があるだろう。他者批判をするときには、自分自身へ向けられたときにも同じように自分自身を批判する精神を持ち合わせなければならない。そして、それを考えたときに他者を批判できず、ズルズルと許していくようでは、尊敬は得られない。難しいことだ。