学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

民意という至高の声

都議会議員選挙が終わってから、マスコミ報道でチラホラとお決まりのような遣り取りを耳にする。番組を変えても局を変えても同じだから、少し異様なものも感じる。次の遣り取りを耳にしていないだろうか?

 

マスコミ「小池チルドレンが誕生し、議会(立法府)による知事行政(行政府)の監視が果たして出来るのか?」

小池都知事「二元代表制として機能する。さまざまなバックグランドを持った方々なので、私にしっかりと意見をしてくれると思う。そもそも、そういうことを聞いてくるなら、かつてはどうだったのかという話ですよ。きちんと監視できていたなら、今の都の行政はなかったのでは?」

 

ざっくりと要約すると、こんなかんじだ。都民ファーストの会が地滑り的勝利を収め、小池さんの独裁が始まるという批判である。こうした質問に僕は耳障りなものを感じずにはいられない。

小泉チルドレンに始まるいわゆる「政治の素人」が大量発生したことを懸念する声は以前からあるが、そもそも民主主義とは「政治の素人」による政治である。民主主義とは、王族や貴族などの生まれながらにして政治に携わってきた、いわばプロによる政治ではない。一定の条件を満たした国民であれば誰でも立候補できるというシステムは、言い換えるまでもなく、「政治の素人」による政治なのだ。

この意味で、政治家は弁護士でも医者でも主婦でもフリーターでも芸人でも、誰もが政治家になろうと志せるシステムなのだ。唯一の関門は選挙である。選挙を通して国民なり住民が承認をすればいいだけのものだ。その「素人」たちは理想の政治について語ればよい。その理想が荒唐無稽だと国民なり住民なりが判断すれば落選するし、当選したとしても、その理想の実現が出来なかった場合には次の選挙で落選するだけの話である。

「素人」だから当然に政策能力はない。政策は能力試験を受けて合格してきた官僚が担うものである。官僚は政治家の手足となって、政治家の指し示す方向に向かって、その理想が実現するように邁進するべきもので、党派的中立は担保されなくてはならない。自らの信条と異なるからといって、政策立案に手抜きをするようでは困る。

政治家は理想を語って選挙で選ばれ、官僚は試験によって選ばれる。それぞれの役割に合った選出方法が用いられているのだ。

さて、話を今回の都議会選挙に戻すが、都民ファーストの会小池都知事の言いなりになっていてもかまわないのではないか。むしろ、それこそが都民の民意なのではないかと思う。マスコミがこぞって質問するように、都民も都民ファーストの会小池都知事の思いのままだということは百も承知で、小池都知事にフリーハンドを与え、彼女の思う都政を議会に邪魔(チェック)されることなく実現して欲しいとの民意だろうと思う。

語弊を承知で敢えて書くが、知事選とは異なり、有権者はさほど都議会議員の素性については知らないであろうと思う。自民党民進党から移籍してきたステルス議員がいても、それを意に介さずに彼らを当選させたのは、その人物いかんではなく、小池都知事都民ファーストの会所属だからという理由であろう。都民は小池都知事の独裁によるスムーズな都政を望んだのである。

今回の都議選の結果について、国政云々という話も聞くが、上述したように都政がスムーズに行くように小池都知事を支持したという構図なので、僕は国政にはほとんど影響がないと思う。大阪維新の会大阪府・市内では勢力を誇っても、国政ではそうでなかったのと同様、都民ファーストの会は都内での話である。大阪における強権発動は大阪をなんとかして欲しいという府民の委託であり、国政をという話ではなかった。橋下氏にも小池女史にも、府民や都民は国政を彼らにどうこうできるとは期待していなかったのだ。

批判者は、二元代表制の地方政治において、その両者ともに1人の手に委ねられたのが制度の趣旨からして歪んでいると言いたいのだろうが、そもそも両者ともに1人の手に委ねられるシステムなのだから、迅速にマツリゴトを運んでもらいたいときに取り得る「通常の手段」である。その民意がおかしいと批判する人は、たいていは自らをエリートと認識して愚民思想を持って大衆を馬鹿にする非民主主義的な人であると思う。にもかかわらず、こういう人が小池都知事を独裁者だのファシストだの非民主的だのと批判する。支離滅裂な分裂症である。お気の毒に。