学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

「都民ファースト」の危うさ

小池都政が本格的に始動した。築地市場豊洲移転の延期を決め、東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会評議会議長の森喜朗氏との会談もすべてマスコミに公開しての会議とするなど、矢継ぎ早に行動している。9月28日から始まる都議会へ向けて、副都知事人事や予算審議など、着々と準備を進めているところであろう。

しかし、この一連の活動を見ていて、一つ、気になることがある。議会と対立している小池都知事にとっては、都民を支持母体としている以上、都民への働きかけは不可欠である。だから、「都民ファースト」という掛け声とともに都知事選挙以降も都民を引きつける「劇場型政治」を続けている。しかし、この「都民ファースト」にこそ、世界の潮流を看て取れるのである。

基本的な構図は、「都議会のドン」こと内田茂氏との対立である。ちょっと話はずれるが、そもそも「都議会のドン」は誰が名付けたのだろう。「鉄の女」とか「目白の闇将軍」とか「政界の団十郎」とか「鈍牛」とか「冷めたピザ」とか、総理大臣や大物政治家にニックネームがつくのは分かる。マスコミも注目しているのだから。しかし、都議会自民党の一地方議員のことは、今回の都知事選挙以前には表には出てこなかった。「ドン」なのにいきなり登場した感がある。地元では言われ続けていたのだろうか。

話を戻すと、ここで言いたいのは、「劇場型政治」の特徴であるイメージ先行ないしはレッテル張りが起こり、事態を正しく認識できなくなる「世論の熱病」が発症しないかという懸念である。

小池都知事と都議会の対立は、古くは小泉元総理大臣の「自民党をぶっ壊す!」とか、橋下前大阪府知事大阪市長の府市議会との対立にも存在した構図であるが、それだけではない。今回の現象は、同時に英国のEU離脱国民投票、そしてアメリカのサンダース氏やトランプ氏による旋風と同じで、エスタブリッシュメント(既存の支配階級)に対する国民(都民)の不満を背景にしているのである。

既存の支配者階級たるエスタブリッシュメントが国民(都民)の気持ちを充分に汲み取れていないという不満が、小池都政を過激にしてしまうことが懸念される。これは「熱情」なので、一気に盛り上がって既存のものを破壊してしまう。既存のものがすべて悪いわけではない。英国でのEU離脱の例にもあるように、あるいはトランプ氏を大統領候補に選んでしまった共和党に見られるように、一度現実化すると後悔の念が沸き起こるものである。

既存のものだから悪いのではない。制度としてはきちんとしている。運用の仕方、つまりは人の問題である。しかも、これは一人二人の話ではなく、長年の慣習とも言うべき積み重ねである。人憎しとて制度まで破壊してしまっては、新制度の構築が間に合わず、混乱へと導かれるであろう。

「罪を憎んで人を憎まず」とは、出典が孔子とも聖書とも言われ、大岡政談の一節としても有名であるが、この精神を忘れてはならないと思う。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」かのように制度まで滅ぼしていってはならないのである。小池都知事を応援するあまり、既存のものを悪弊として一緒くたに攻撃してしまっては、後悔するのはここでも「都民ファースト」なのである。

勧善懲悪は日本人の大好きな構図であるため、大きな人気を呼び、言動がエスカレートしていってしまうが、そこで一歩立ち止まり、冷静に考える一コマを持つ心の余裕を涵養しなければならない。そうでなければ、イギリスやアメリカの教訓を学んでいないことになる。完全なる善や完全なる悪は存在しない。それに、悪にも「必要悪」という効能もある。日本人のもう一つの特徴、グレー・ゾーンに身を委ねる性質をここでも発揮しなくてはならないだろう。中庸である。善の行き過ぎは悪にもなるのだから。