学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

本質的モノの見方

少し前から政府が「働き方改革」を推進している。日本人は「エコノミック・アニマル」だと海外から揶揄され、働きバチに喩えられてきた過去からすると、社会風潮の移り変わりを感じずにはいられない。僕が少年だった頃の常識はどんどんと覆っていく。「亭主元気で留守がいい」と言われた時代、ほんの20年前との隔絶感は大きい。

働くことが美徳とされ、生活保護は皆様のご迷惑になることと避けられてきた過去の風潮からすると、現在の風潮は真逆である。「働いたら負け」と言われ、「生活保護貴族」なる物言いまで耳にするようになった。確かに、働いて精神を病み、社会生活からリタイアするようになるのでは、働くことは美徳とはなるまい。個人の精神衛生を最優先に図ることは、個体として正解である。

そして、ここにきて政府から「休み方改革」なるものが出てきた。同じことの視点の転換である。働き方を改革するとしてライフ・ワーク・バランスを推進してきたわけだが、このライフの部分をとりわけ抜き出して対策しようというものである。その目玉が有給休暇取得の奨励と、それへの企業助成金である。一方で、「キッズ・ウィーク」なる大型連休を導入して、有給休暇の使い方にまで口を挟もうとしている。

現代行政国家(社会福祉国家)はどこまで肥大するのか、どこまで国民のプライベートに口を出そうとしてくるのか、僕自身はとても警戒してしまうのだが、今回の政府の対応策は根本的に間違えているように思う。休みの有り様にまで国家に口を挟まれるのかという忸怩たる思いがある。

現状のままに有休を取らせたところで、今度は企業が疲弊していくだろう。働き方を時間を物差しにして変えさせ、有休を取らせて強制的に休暇を取らせたところで、事態は悪化するだけである。たとえば、10時間で10の仕事量をしている人の働き方を時間で測って7時間にしたら、消化される仕事量は7である。溢れ出た3は、どこにいくのだろうか。人手不足に加えて企業体力のない今のご時世では、他の人に回すこともできないだろう。かくて、企業は没落していく。もちろん、残業が減って手取りが減った労働者に休暇で使う資金などない。企業も人も雁字搦めである。

働き方改革ないし休み方改革などというものは、質的変化を伴うものでなければ意味がない。10時間かかって10の仕事量をしていたものが、7時間で10の仕事量をこなすようにしていくことこそが改革の本丸ではなかろうか。効率を上げ、生産性を高め、そして浮いた時間で遊べばいい。生産性が今のままで働く時間を減らしたら、企業収益は悪化し、労働者の手取りが減ることは必定である。人手を増やしたら、逆に人件費で企業が赤字になる。

つまり、政府のやるべきことは、仕事で実際の役に立つ生産性や効率性の向上のための支援ではなかろうか。働き方改革・休み方改革に割いている人的資源と予算を、たとえばAI(人工知能)の開発に回したり、そうした機械導入のコストに対する企業への助成金に回したりするべきではなかろうか。企業は生産活動をするものであり、利潤を追求し、それを増大させていく使命を持つ。この資本主義における根本を無視して、上辺だけの改革に何の意味があろうか。「プレミアム・フライデー」なるものの虚しい響き、定着の無さも、実は同根である。「そうはいっても、現実は…」という国民の声がある。

労働者に充実した資金があれば、放っておいてもそれぞれ勝手に遊びだす(というよりも、そんなところにまで政府に介入されたくない)。そのためには企業がガンガン儲けていなければならない。そのためには、生産性の向上や効率性の向上に努めなくてはならない。ここにこそ政府の援助があってしかるべきである。それを、有休を何日以上取りなさい、取ったらご褒美を上げる、休日はお出掛けしなさい、そうすれば子どもも休めるようにしてあげるなどという指導をしているから、国がダメになる。目先のことしか考えていない。

今の政策を受け入れていたら、10年後、20年後の日本経済は破滅的になっているだろう。止められないグローバル化の前に、国際競争力も落ちぶれていくばかりであろう。100万円を稼ぐのに従来の10時間必要だったものを5時間で済むようにしていかなければ働き方改革の意味はない。そこで10時間働かせて200万円にしていくのに歯止めをかけ、5時間で100万円を稼いだら、10時間働いていた時と同じ収入を5時間の労働に対して支払うというような改革でなければ意味がないのだ。

とはいうものの、政府に当ブログのような場所で批判をして叫んでいても通じない。だからこそ、個々人でできること、つまりは自己研鑽や能力開発を通して、政府に振り回されずに自分の手の届く範囲で対策を練っていく必要がある。自分の手の届く範囲とは、自分自身のことである。どんな環境になっても困らぬように、あるいは予想される環境に適応していけるように、モノの見方を鍛えて本質的対策をしていかなければならないと思う。