学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

理想の自分の作り方

価値観というのは、非常に扱いにくいものである。それは個人から集団に至るまで、さまざまなレベルの思考傾向を包含している言葉だからである。かつ、他者の価値観を尊重せねばならないから、なお一層、厄介なものである。

たとえば、「価値観の不一致」を理由に離婚する場合が個人的な価値観である一方、キリスト教的やイスラム教的となれば、時代を超えた集団的な価値観である。宗教に限らずとも、文化や風土によっても醸成される。企業内における価値観の集団的な傾向は、企業風土などと言われることもある。

ここが扱いにくく、厄介なことになる理由である。価値観は多様であり、それは個人であっても集団であっても同様である。だから、ある価値観には、異なる価値観との調整を経て共生できることが必ず必要となる。異なる価値観と共生できない価値観は、異なる価値観の強制的排除という暴力的手段に陥らざるを得なくなるであろう。それが昨今のテロリズムの構造的なところである。

では、個人の価値観というものは、集団の価値観とはどのように調整するのであろうか。集団の価値観は、「マナー」あるいは「常識」というような形で立ち現れてくるのだが、それを「マナー」と受け止めるか、「価値観の押し付け」と見るかは人それぞれ。しかし、ある集団の中での「マナー」や「常識」を押し付けと拒否すれば、その個人はその集団内にいることはできなくなる。だからこそ、どこで調整をするかという問題になるのである。

その個人が当該集団にどれだけ属したいかどうかに拠るのであろうが、その自らと異なる価値観をどこまで受け入れるのか、我慢するのかという「限度」の問題へと転じる。これが国家や地域共同体であればともかく、その他の集団であれば属することも抜けることもある程度は自由になるからだ。

ここで大きく話を転じるが、「類は友を呼ぶ」という言葉がある。これは今回の文脈で言えば似たような価値観を共有する者同士が仲間を形成するという意味になる。これは自然とそうなるということであるが、人間は自己研鑽を通して成長しようとする生き物である。だから、これを逆手にとって自らが目指す人間像、そうした人物が属する集団を想定して、自分がそれにふさわしい言動をするようにすればよい。価値観は集団であれば時代とともに変化するものだし、人の成長においても刻々と変化するものでもある。頑迷に今日までの価値観を奉戴する必要はない。

たとえば、箸の持ち方である。箸の持ち方をどうでもよいと受け止めるか、きちんと作法を守るかという問題である。食べられればよいし、人に迷惑をかけるものでもないから個人の勝手でしょ、そう思うのも価値観であって、箸の持ち方をきちんとするよう声を掛けられることは価値観の押し付けであり、よけいなお世話でもある。そして、そういう人は箸の持ち方を気にしない人たちと過ごすようになる。箸の持ち方を気にする人たちからは避けられるようになるであろう。そこで箸の持ち方を正しく作法に則るように頑張れば、周囲にはそういう人たちが集まり、どうでもよいと思う人たちとは過ごさなくなるであろう。

どちらが良いの悪いのという話ではない。箸の持ち方をどうでもよいと思う人は、箸の持ち方などという些末なことに煩わされない環境を得るのであり、箸の持ち方は人柄だと気にする人は、食事時に気持ちの良い時間を過ごせるようになる。どちらも、快適な環境を手にすることができるというわけだ。

だからこそ、どのようなものであれ、自らが理想とする人物の属する社会で生きようと努めれば、やがて理想の人物に育っていくのである。人は個人では孤高に存立しえず、必ず周囲の人の影響を受ける。自分の価値観において「影響を受けるべき理想の環境」に身を投じていくことで、理想の自分が実現してくるという理屈が成り立つ。最初は苦しいものもあるかもしれないが、いつのまにか、それが当たり前、普通、自然体に変わってくるであろう。この過程での苦しさは、以前の投稿で「見栄を張れ」「建前を維持しろ」と主張したところと同じく、理想的な自分を誇りに思う心があれば、容易に乗り切れるものと思う。

ぜひ理想の自分を実現してもらいたい。