学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

言葉の魔力 その2

前回の投稿に続き、言葉に関する考察をしていきたい。

日本には「言霊(ことだま)」という思想がある。言葉には不思議な霊力が宿るという意味である。口に出した言葉が現実の事象に影響を与えると信じられてきた。非科学的と退けようとも、これは史実であるし、今現在もなお、この思想は生きている。

どんなに非科学的だとして避けようとしても、たとえば、結婚式での忌み言葉は無視することはできないであろう。「新郎新婦が別れて仲違いをすることのないように、縁切りをすることのないように、2つに割れた茶碗は元通りにならないという言葉を胸に、毎日を仲睦まじく過ごしていってください」とスピーチできる人がいたら、会ってみたいものだ。おそらくは、いや、確実に、その人は社会的不適合者である。

また、現代の性差別排除の動きからしたら批判を受けるかもしれないが、「男言葉」「女言葉」も、言霊である。僕が小さい頃、男言葉を使う女の子がいたら、「これ!はしたない!乱暴な言葉遣いをして!」と叱られていたものである。そして、たいていは、そうした言葉遣いをする女の子は男勝りで、しゃなりしゃなりとはしていない。とても男らしいのだ。

あるいは、昨今よくテレビで見かけるようになった「女装家(こんな言葉があるのかと言いたいが)」や「おねぇ」の人たちの「女言葉」は、彼らをして女性よりも女性らしくしているのではなかろうか。所作や気遣いの細やかさなど、女性らしさを強調しているのか、きわめて女性的である。女装家やおねぇでなくとも、普通の男性がふざけて「女言葉」を使うときは、手ぶりなども女性らしくなっていることと思う。

他にも、良い言葉を発すれば良いことが起こり、悪い言葉を発すれば悪いことが起きるというのもある。寒い日に「寒い」といえばよけいに寒さを感じる、というのも、この例である。ネガティブなことばかり考えているから悪いことが起きるから、ポジティブに考えていこうというような態度も、日常的に見かけるのではなかろうか。

とするならば、我々はもっと言葉に注意を向けなければならないし、もっと言葉を知らなければならないし、もっと正確に言葉を用いなければならない。ソシュール以来の弊害ではあるが、我々は言葉によって物事を認識する。これの正否は別として、実際に現代の我々は確かにそうであると認めざるを得ない。つまり、言葉にできないものは認識できないのである。その代表的なものは悩みであろう。

悩みはなんで悩んでいるか曖昧模糊としているからこそ悩みなのである。友達に相談して話しているうちに、つまり言葉にしているうちに、「あれ、なんでこんなことで悩んでいたんだろう」と悩み事が小さく見えたり、どうでもよくなってしまったり、気持ちが切り替わったりもする。言葉に直すことで事象を認識し、だから解決策も見えてくる。コンサルタントでよく使われる「マインドマップ」も同様の効果を生み出すことは知られている。

だから、言葉を多く知れば、その結果として言葉を精緻に使用し、もって認識を鋭くしていくことができるのである。頭をよくするためには、事態の把握能力が高くなければならず、把握能力を高めたければ詳細なニュアンスの別まである豊富な語彙力がなければならない。言葉を大切にしよう。やみくもに言葉を垂れ流さないように意識していこう。自戒を込めて、ブログ記事としました。