学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

言葉の持つ威力

今日、職場で次のような言説を耳にした。

左利きの人は13人に1人。AB型の人も13人に1人。そして、LGBTの人も13人に1人。LGBTの人は決して稀な存在ではない。

これを耳にしたとき、口には出さなかったが感じたことがある。左利きは1種類、AB型も1種類なのに、LGBTだけ4種類じゃん、と。つまり、レズの人は左利きの人やAB型の人より4倍も見つけづらい。同様にゲイの人、バイセクシャルな人、トランスジェンダーの人も、である(実際にはL・G・B・Tの存在割合が等しいわけではないので、個別に勘定して4倍というのも正確な表現ではない)。LGBTを「性的少数者」と1つに見なすのなら、LGBTへの偏見と受け止められそうだが、純粋に言葉の問題としては、4種類と言わずにサドやマゾ、あるいは特殊な性癖を持つ人も含めることも可能である。

また、左利きとまとめずに「足で食べずに手を使って食べる人」とか、AB型と言わず「なんらかの血液型を持っている人」とした場合、確率はものすごく高くなることだろう。つまり、冒頭の発言は比較の軸を間違えているから、ナンセンスな発言である。比較するには同位のもの同士しか比較にならないのである。

誤解のないように繰り返して言っておくが、LGBTが云々という話はしていない。言説におけるカテゴライズがおかしいと言っているのだ。カテゴライズを誤れば、その後に続く結論も、もちろん、ナンセンスである。論理展開をしていく上では、適切なカテゴライズが非常に重要な役を担っていることが理解できただろうと思う。

ところで、LGBTなる言葉の「発明」によってLGBTが存在したと言うことも出来る。僕が小中学生だった頃には、「セクハラ」も「モラハラ」も「アカハラ」も現象としてはあっただろうが、そうしたものは社会には存在していなかった。正確を期すれば、人々にそうした現象は認識されていなかったのである。同じように、「いじめ」の件数が増えたとか「鬱病患者が増えた」というのも、その存在を公に認識してカウントし始めたからであって、現象自体は今も昔も同じようにあったはずである。

他にも、「格差問題」について、「格差」自体は縄文時代からあったし、貧富の差は江戸時代のほうがよほど大きかっただろう。しかし、「問題」として認識されていなかった。封建制度下の身分制にあっては、「当たり前のこと」であり、「自明のこと」であったからだ。「格差」を「問題」として認識して初めて、格差は問題になったのである。

ある現象を言葉として捉えること。これだけで分析眼が備わるのである。この「言葉が持つ威力」は観察眼を鍛え、分析眼を鋭くさせるものである。だから、言葉に細心の注意を払い、可能な限り語彙を増やして表現力を磨いていくことは、知性を持つことに等しいのである。人は言葉に直せないものは認識できない。語彙や表現が少なければ、それだけ漠然と漫然と物事を見ているということになる。これでは気がつくことは出来ないし、まったく別のものを同じカテゴリーで見ることに繋がりかねない。

言葉の威力を認識し、言葉力を磨いていくことを強く勧めたい。