学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

信念について

「信念」は英語で表すとfaith、beliefである。faithはラテン語で「信じること(fides)」が語源であり、これは「信仰」という意味により近い。beliefはドイツ語の「神を信じる」というglaubenが元になったとも言われている(他説あり)。ということは、西洋においては神との約束・契約や恩恵という側面を持ち、宗教的な要素を含む。予測不可能なこと、分からないこと、未知なるものに対する神の力にすがる精神構造である。

一方で、日本語の「信念」は、分解すると「人」+「言」+「今」+「心」で成り立っている。「人が言葉に寄り添い、今この時を一心に」ということになろうか。未知なることに対する不安は同じだが、言葉に出すことで一心に唱え、やがては成就させるという点で、欧州圏におけるよりは自力的で、個人的ですらある。

日本には言霊信仰というものがある。良いにせよ悪いにせよ、口に出したものが実現してしまうという発想である。忌み言葉があるのも日本文化の特徴である。しかし、この口に出すということ自体、認識しているということであり、その認識の仕方で日常に変化が現れ、結果的に物事がそうなっていくという風にも捉えることができる。ソシュールによれば、人は言葉にできないものを認識することはない。

とすれば、ポジティブ・シンキングやネガティブ・シンキングというのも同様で、ポジティブに考えていけば物事は好転する、ネガティブに考えていけば物事は悪化するということもまた、大きな意味では言霊信仰である。口には出していなくとも頭の中で言語化しているからである。ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」も、このことを表していよう。

ということは、「信念」とは「口癖」とか、その人が日常的に言葉の端々に乗せてしまっているものなのだ。「~らしさ」という形容も、その人の特徴的な言い回しや「いつも言っていること」「いつもやっていること」が表に出たときに用いられる。プラスなものもマイナスなものも「信念」である。逆に言えば、ある言葉を口癖のように出し、唱えていれば、その人はそうなっていくということでもある。それが座右の銘や座右の書である。片時も離さず身に付けている言葉や思想を自ら作り出してやればよい。

「信念」を持たない人は「八方美人」とか「流されやすい」とか形容されやすいが、以上の文脈からすれば、自らの言葉ではなく相手の言葉に支配されている人ということになる。そして、「~らしさ」もないから「自分がない」と批判されることもあろう。とはいえ、まっさらな白紙状態から自分を作り上げられる人はいない。座右の書、座右の本、座右の人物(理想の人物)を見つけ、まずはそれらに「盲信」することから始めればよい。それで生活をしていれば、やがて自分自身の生活との折り合いから修正を余儀なくされる。その時、その人自身の「信念」や「~らしさ」が生まれてくるのだと思う。その修正を加えられるようになるまでは、何十年か掛かるような壮大な時間を必要とするであろうが。