学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

説明責任なるもの

2000年代に入った頃からであろうか、やたらと「アカウンタビリティ」なる経営学用語が日常生活に幅をきかせ、やがてカタカナでは通じにくいので「説明責任」と言い換えて、この言葉が横行してきたように思う。

話は少し逸れるが、「横行」という言葉が「秩序から逸脱した」という意味で用いられるところを見ると、日本社会では「縦」が正常な秩序なのであろう。「横に行く」ことは、マイナス要因として受け止められているのだ。「幅をきかせる」という言葉もまた、横方向への広がりである。

ということで、冒頭段落において、僕は「説明責任」なるものを好ましいと受け止めていないことを明らかにしたかったのである。これを今の日本社会で言うには少し勇気が必要だ。縦秩序である「上から目線」が忌避される状況にあっては、同等あるいは下位からの目線である「説明責任」こそが歓迎される姿勢であろう。僕の姿勢は、これに真っ向から対抗する姿勢であるからだ。

「教える」-「教わる」関係であるならば、上下関係は明確である。教える側は、その内容において教わる側よりも圧倒的優位に立っているからこそ、教えられるのだ。それを、「教育心理学でこのようになっているから、このように教える」だとか、「教育方法論でこのようになっているから、この手順で教えるのだ」とかというような「説明責任」を果たし、教わる側に納得して「いただいて」から教育を行なうものではない。

そもそも、学問でもスポーツでも、習得するなら苦を伴う。その苦に納得するならば、教わる側はマゾヒスト、ドMである。納得できない部分があるからこそ、強制力を働かせる必要もある。ここにおいて、「説明責任」なるものをしていられるものではない。だから、「説明責任」を果たすなら同意を得られるようなものに変える必要があり、教育は効果の薄い甘ったるいものになり、そこで教わる側は「客」になる。助長した客は手に余る。

一方で、「教える側」は、その内容において、圧倒的優位を確保しなければならない。そのための努力は並大抵ではないだろうが、だからこそ、「こうしなさい」と断定できるようになる。この相当な努力を放棄して「教える側」になるもっとも簡単な方法は、「説明責任」を果たして相手の同意を得、施す教育内容への責任を、その内容で素人である「教わる側」と分担してしまうことである。逆説的ではあるが、「説明責任」を果たすことで、責任の所在は曖昧になる。逆に言えば、「教える側」がプロでなくても、教えるという行為が出来るようになるのであるが、その質はいうまでもなく、下がる。

このことは、ここ数年の間、空転が続く国会、そして、その周縁である政治の世界についても、広く一般に言える。政党や議員はもはや「代表者」ではなく、一見すると言い訳にしか聞こえないような「説明責任」を観客である国民に一生懸命にするようになった。「代表者」というのは、「私はこうしたい」「私はこうするべきだと思う」と立場や意見を表明する者のことだ。その声が自分の声を代弁していると思えば国民はその人に投票する。これが代表制民主主義の姿である。

ところが、今での政治家は一生懸命に疑惑を追及し、不手際を詰り、不備を突く。つまり、野党は与党の「説明責任」を求めているだけなのだ。これでは、言論の府は成り立たない。彼らがしていることは検察なり警察なり、担当行政機関(実行部隊)がやればいいのであって、言論の府で議論を戦わせることと本質的にずれている。どうしたいのか、どうすべきなのかを語るからこそ、議論が始まるのであって、「説明責任」を求めるところに議論はない。

かくて、国民の代表たる議員に国民は代表されているとは感じなくなる。議員になることは、言い逃れに巧みになり、常に追求に戦々恐々としている状態に身を置くことである。これでは、まともな人間は議員になろうとはしない。教育界と同じく、「説明責任」なるものが質を低下させる現象はここでも起きてくる。

代表されていないと思えば、住民投票やら国民投票やらの直接民主主義に頼ろうとしてくる。代表制民主主義の限界説である。そこで、広く国民の間で議論をしようという流れも生まれてくる。最近流行のアクティブ・ラーニングだの大学入試へのディスカッション能力の導入だのという流れもそうである。しかし、アクティブ・ティーチングのないところ、自らの意見を正しいと押しつけるような立場や意見のないところに、そんなものは根付かない。形骸化するだけである。

だから、今こそ勇気を持って「上から目線」で「説明責任」を歯牙にもかけないような姿勢が必要なのだと思う。傲慢かもしれないが、そうしないと、クリエイティブな発想やら主体者・主人公としての自分の人生は手に入らないと思う今日この頃である。