学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

日々是更新

昨日、弟子の一人と話をした。いわく、「僕の今の原則は先生から教わったこと」だという。卒業・就職して3年、25才になった市役所職員である。少し遠くにいるので、なかなか会うことは出来ない。しかし、今もこうして仲良くしている。今回の話の中で、「7つの習慣」と「アドラー心理学」が話題に出た。

「7つの習慣」はフランクリン・コビーの著書であり、今は「第8の習慣」まであるが、僕は個人的には「第8」は蛇足であり、7つまでで体系的には完成していると思っている。そして、アドラー心理学は、25才前後の人にとってベストセラーである。彼らが社会に出るときに流行した書籍だからだ。ちょうど人間関係に悩む時期に書店で邂逅したのであろう。こうした時期に出逢った本の影響力は大きい。

しかし、どちらも「更新」が必要な時期に来ていると思う。この背景には、社会産業構造に産業革命期以来の大きな変動が起きているということ、多様性を大きく認める時代になっているということの2つがある。社会産業構造の変化とは、産業革命の終着点である「大量生産大量消費」に陰りが見えてきたことで、人々の生活様式に変化をもたらしていることを指す。大量生産は効率性や合理性の極限であり、労働力の減少などの人口減少問題とも絡む一方で、同じ人口減少問題により大量消費は成立しなくなった。

この大量消費の限界には、多様性の拡充も一役買っている。多様性が拡がれば拡がるほど、画一的な商品は売れず、大量消費に代わってカスタマイズ化された商品が注目を浴びていくるようになる。今やパソコンでもスーツでも、オーダーメイドないしカスタマイズが主流になりつつある。主流は言い過ぎかもしれないが、オーダーメイドないしカスタマイズは一部の富裕者向け商品ではなく、普通の人々の手の届く範囲に確実に降りてきている。ZOZOSUITによる体型測量は、その最たるものであろう。

資本主義は船による水平線の拡張、鉄道による地平線の拡張、そして空や宇宙への拡張と飽くなき膨張をし、今やサイバー空間への拡張にまで到達しているが、ここにきて膨張する「空間」がなくなったと言われている。そして、およそ200年前からの「人口爆発」も先進国では縮小へと向かい始めた。資本主義の機能する土壌が失われつつある。しかも、AIやビックデータという前代未聞の未知の要素が本格参入してきた。

こうした変化は、1980年代までの、いわゆる資本主義社会を前提とした処方箋も変化をしなければならないということを意味するであろう。もちろん、全面改定ではなく、部分的加筆修正である。社会は急激な変化をしないからである。必ず、それまでの時代を色濃く引きずる。明治維新期に西洋文明が日本に流入しても、人々の意識は江戸時代を引きずり、いわゆる西欧型とは異なる日本型近代社会を成立させたように、である。

つまり、「7つの習慣」は、人口減少社会にも関わらず多様性が拡充した社会において、その拠って立つ前提を変えての再検討が必要であろう。また、多様性が拡がって個人性が注目されていく中、人間の持つ集団性に対する「個人心理学」としてのアドラー心理学も再読が求められよう。アドラー心理学は「心の持ち方」に関するものであり、昨日の話題に出した「人目を気にしすぎる」ことへの対処である。だから、社会的ニーズを受けてのベストセラーだと思う。

こうした古典の現代的位置付けをした上で、古典を再読・再検討していくことが今後の課題となってくるはずだ。3~5年前に僕を師事した学生たちをもう一度集めて、教えた内容の更新をしたいと強く願うに至った。冒頭の学生に久しぶりに会おうと提案してみた。近いところで実現することを期待している。

志望動機の書き方

就職活動における学生の志望動機書を添削していると、最近の若者の傾向が分かる。そんな中でも、とくに2つのことが気になっているので、今回はそれらについて書こうと思う。

1つめは、「人目を気にしすぎること」です。志望動機とは、志すこと・望むことのきっかけであるはずだが、それが「人のためになりたい」「人を笑顔にしたい」「人の役に立ちたい」ということばかりなのだ。これらを綺麗事として遠ざけるつもりはない。こうした「名誉欲」も立派な志望動機であろう。しかしながら、就職活動の人物試験として志望動機を尋ねられたなら、それは自分を中心にした「野望」であるべきだろう。人が人がと主張を繰り返して、自分を売り込めるわけがない。

この意味で、「人のためになりたい」「人を笑顔にしたい」「人の役に立ちたい」というのは周縁にあるものだ。これらはけっして「やりたいこと」ではなく、その結果としての副産物に過ぎない。自分が主人公としてやりたいことを実行した結果、人のためになって、人を笑顔にして、そして人の役に立つのである。語弊を恐れずに言えば、人のことなんか気にせずに自分のやりたいことをトコトンまで貫くのがよい。己や己の仕事の質を高めてこそ、周囲に気を配ることが出来るようになる。

己の性格のどんな特質を何でどのように活かして人の役に立つのか。これを過去の経験などを用いて説得力を持たせながら伝えていくのが、志望動機の書き方であろう。己の性格が何か、それは社会的に、あるいは仕事上、どのようなプラスの、ないしマイナスの貢献をするのかについて考察することは自己分析であり、どのように活かせるのかについては業界研究である。

そして、気になる2つめは、この自己分析や業界研究において、自分に嘘をついているということである。自分自身でも信じていないような志望動機が述べられているのである。公務員で言えば、「少子高齢化社会を打開したい」とか「治安を守りたい」とか述べるのであるが、本気でそう思っているのか、本心からそう願っているのか、こうした志望動機を読むと、このように問いたい気分にさせられる。

少子高齢化や治安維持は確かにその通りである。いわゆる行政課題である。でも、おそらくそれは「どこかで聞いてきた他人の考え」の域を出ていない。メディアでも先生からでも、出所が何であれ、コピペにしかすぎない。そして、厄介なことに、本人も「そうだ」と思い込んでいるのである。しかし、少し質問を重ねていっても、なぜ少子高齢化社会や治安維持が本人にとって解決するべき課題なのか、いっこうに埒があかない。

本当はどこかで少子高齢化や治安維持はどうでもいいと思っているのではなかろうか。でも、そこを受験する以上、まさしくテンプレートのように「私は某に興味があり、解決したいと思っている」と述べるのである。つまり、本当の志望動機が隠れ、人受けのよい優等生的な理想の答えをどこかから引っ張ってきてしまう(コピペしてしまう)のである。ここにおいても、「人目を気にしすぎている」。

人受けのよい優等生的な理想の答えをどこかから引っ張ってきてしまうから、面接試験で「なぜ?」「どうして?」と重ねられれば、すぐに行き詰まってしまう。自分の考えではないのだから根拠に乏しく、答えられないのも当然である。つまりは「熱意」が足りないと判を下されてしまうであろう。逆に言えば、自分の心にトコトン向き合い、綺麗事を意識せずに、つまりは人目を気にせずに、自分自身が持つ生々しい気持ちに向き合うことこそ、正しい自己分析である。

もちろん、生々しい気持ちをそのまま表に出すことは社会的ではない。表に出すときには表現方法に気を配るべきである。人間関係を気にするのは、こうしたアウトプットの場面だけで充分である。内面にある自らの気持ちの形成にまで他者を関わらせる必要はない。そして、このプロセスを経た志望動機は、幾重もの「なぜ?」「どうして?」に耐えうるし、その語りには、考えに考え抜いたからこそ、熱意が充分に籠もるのである。

最後に1つ。考えに考え抜くということは、「これで結論」と思ったところをスタート地点にすることである。

今日の投稿が世の若者諸氏に資することを願っている。

ムラ社会とグローバル世界

今回は政治的に微妙な話題となることを最初に申し上げておく。そして、いわゆる「差別」意識なく率直に思うところを述べていくので、そういう前提で読んでいただけたらと思う。

先日、大阪なおみ選手がテニスの4大大会「グランドスラム」で優勝した。興奮した対戦相手の見苦しさに比して、試合中でも表彰式でも、その遠慮がちながらも堂々とした態度は立派であったし、なにより、偉業を成し遂げたことは、心からの盛大な拍手を送りたい。

しかし、その一方で、彼女が「日本人として初の快挙」とか「日本人選手」として紹介されるたびに、正直、違和感を抱いたのも確かである。ハイチ系米国人を父に持ち、日本人を母に持つ彼女が、見かけ上、いわゆる僕の中の「典型的な日本人」像から懸け離れているからである。

これには思い当たる節もある。日本の国技たる大相撲で外国人力士が横綱として多数輩出され、日本人横綱がいなくなったあたりから、相撲に対して抱いた違和感と同じなのである。見た目はきわめて日本人に近いアジア系外国人力士であっても、相撲は神道の神事である。日本人としての精神性が高く問われる。外国人力士の活躍を耳にするたびに、神事としての相撲は、いつしか消えてなくなったかのような気がしたのである。昨今の相撲協会のゴタゴタは、そうした一連の出来事の帰結のようにすら思えた。

これらは僕が古いことに拠ると自覚している。エリック・ホブズボームがグローバリズムの進む世界を「グローバル・ビレッジ(地球村)」と称したが、僕は「ジャパン・ビレッジ(日本村)」から精神的に抜け出せないでいる。この村はなかなかに強固で、「典型的」でないものを排除するような排他的なムラ社会である。だから、幼少の頃にニューヨークに移り住み、カタコトの日本語を操り、アメリカ社会で育った彼女を「日本人」の成果として認められないでいる。

グローバル化が急激に進み、町中で外国人を多数見かけるようになった。地域の公立学校にも外国人を親に持つ子どもの割合が増えている。僕の子ども時代にはまず日常になかった風景である。こうした時代背景の中で、「日本人とは何か」という精神性が問われ、日本人としてのアイデンティティが揺らいでいるのである。

しかし、大阪なおみ選手を見ていると、表彰式で「ごめんなさい」と泣きながらに周囲へ細やかな配慮を示したり、試合後には「カツ丼」や「カツカレー」を食べたいと言ったり、はにかんだ笑顔を見せたりという場面に接すると、古き良き日本人の姿をはっきりと見て取るのである。精神性は明らかに日本人である。だからこそ、見かけ上に惑わされ、本質で見ようとして見かけに戻り、と両者の間を行ったり来たりしている。

こういうアイデンティティの危機に直面するからこそ、大阪なおみ選手の存在は僕の「現代人としての日本人」を問いかけ続けている。グローバル世界に生きているからこそ、「国際人」という根無し草ではない「日本人」としてグローバル世界にアクセスしようとしてきたが、本当の意味での「グローバル世界」を生きるということは、純血を守ることではなく、大阪なおみ選手の持つ「日本人らしさ」の精神性を維持することなのかもしれない。

ここで、「維持することだ」と断言できず、そのように変わろうと決意を表明できない部分に、ムラ社会で生きてきた頑固さが僕に残っているのである。なんとも悩ましいことだ。頭では分かっていても感情が付いてこないのである。感情をもてあます最近である。

批判のための批判

政治家やテレビのコメンテーターの発言を聞いていると、その発言の意味するところを理解していないのか、いわゆるブーメラン発言が目立つようになって久しい。しかし、もっと近いところでは、あまりにも発言が無責任であることも目立ってきたように感じる。

8月10日発売の「文藝春秋」9月号で、自民党石破茂元幹事長は、安倍総理への「宣戦布告」ともいうべき手記「安倍総理よ、命を懸けて私は闘う」を発表した。元防衛大臣や国民や自衛官の命を守るべき立場を目指す人に、そうそう簡単に命のやりとりを云々してもらいたくない。自民党総裁選で負けたら本当に命を絶つのならよい。あるいは、「政治生命」との比喩として、議員辞職をするのならよい。発言に重みもあろうし、それだけの覚悟なのだろうと思う。しかし、実際には何事もなかったような日常へと回帰するのだ。

そもそも、野党であるかのようにモリカケ問題を糾弾して、正直や公正な政権を目指すと言うが、これでは自民党総裁を目指す与党議員が政権打倒を宣言に等しいではないか。政権打倒ではなく総裁交代という話であるのに、政権打倒を謳うから与党議員や与党支持者の大半から支持を失うのは自然なことである。官僚による一連の不祥事は、たまたまここで表出したに過ぎず、話の発端は民主党時代からもあったはずである。政治家は官僚を信頼して実務を任せるのであって、その官僚が不祥事を起こしたら罰すればよい。安倍政権だから不祥事が起き、安倍政権だから腐敗したという構図ではない。

とすれば、野党も与党と一緒になって官僚コントロールに知恵を絞るべきところだ。ところが、政権打倒にばかり目がいき、批判のための批判しか出てこなくなる。批判のための批判とは、結論ありきの批判である。安倍総裁を辞めさせる、安倍総理を辞めさせるというところに結論を持ってきているから、与党内の総裁選と野党からの政権打倒が同じ論調、同じ枠組みの中に属するという奇妙な現象が発生している。

本来、批判とは、物事に検討を加えて、判定・評価することである。批判のための批判とは、物事を検討する前に判定してしまっているのである。これでは建設的ではなく、議論の成り立つ余地を奪い、感情的な対立やしこりを残すだけの徒労に終わる。これが言論の府での出来事である。

議論を成り立たせるためには、まずは、言葉に敏感になることが必要だ。センセーショナルな煽りではなく、インパクトの強さを意識するのではなく、その意味するところを正確にしなければならない。そのうえで、物事の構図を定め、どこがどのように問題なのかと課題発見をする。こうして議論はスタートできる。自らが野党党首になっているかのような構図で議論を始めることは建設的ではないと思う。自らが政治家でなく市民になっている構図での議論はナンセンスですらある。

モラル・ハザード

最近の不祥事を見ていると、「モラルが崩壊している」の一言に行き着くのではないかと感じている。文科省収賄自民党総裁選、沖縄基地問題東京オリンピックのボランティア問題、銀行員不祥事、東京医科大、大相撲や日大やボクシングなどのスポーツ、大塚家具経営破綻、東芝や神戸鉄鋼など、世間を騒がせるニュースを耳にするたびに、当事者にモラルがあれば問題にすらならなかった問題と思ってしまう。

つまり、一連の不祥事は、制度やシステムの問題ではなく、運用の問題である。戦後に設計された制度疲労やシステム不全があるのは確かだろうと思うが、もっとも疲弊しているのは人の心のほうではないかと思う。運用する側の心構えがきちんとしていれば、ある程度は制度疲労やシステム不全は補える。

もちろん、制度やシステムは性悪説に基づき、どのような人が運用しようとも一定水準の成果を上げられるように設計されている。そこのところでマンパワーに頼るような制度やシステムは立案の時点でアウトである。人の良さ、人の好意を当てにした設計は人を犠牲にするだけである。

だからこそ、制度やシステムでは、チェック監査機能が十全に働くようにしなければならない。制度やシステムにおけるチェック機能の重要性は、その機能が過不足なく動くために必須である。民主主義でも国家でも会社でもプログラムなどでも、およそチェック機能が不十分なところでは制度やシステムは脆く崩れ去るしかない。

今回の一連の不祥事では、たいてい、このチェック機能のところが破綻している。もっともあからさまな例で言えば、日大で内田氏が運動部を統括する保健体育審議会の局長職にあったことである。管理する方とされるほうが同一人物であれば、監査機能が働かないばかりか、制度やシステムを意図的に破壊したに等しい。制度やシステムがきちんと整っていても、骨抜きにする運用法である。このことは、銀行など他のところ大なり小なり同じである。

ということは、人の心を育てなければならない。職に対する矜持、技術に対する誇りといったものは今こそ必要とされている。宗教が崩壊したと言われているが、今後は宗教的な何かが興隆してくると思っている。なぜなら、多くの人々が今、住みにくさを感じていると思うからだ。

名誉が重んじられる社会に

8月6日に投稿した記事に関連して、今日8日の読売新聞に同様の趣旨の記事が載った。「時代の流れに逆行」との批判もあろうが、実際の医療現場で女性医師の職場離脱が問題であると指摘した小欄の記事を追認してくれる記事である。

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しかし、その後の報道を見ていて、1つ付け加えたいことが出てきた。文科省前局長の息子を一般入試で不正合格させていたこと、卒業生の子息を同じく不正合格させていたことである。これは純粋に大学の綱紀の問題である。前回の記事では日本大学の場合とは異なって、大学の不正ではなく社会の問題と断じて、大学側を擁護していた側面があった。これを訂正しておきたい。

官僚にしても大学にしても、道徳が崩壊している。社会的にも欠けていると感じないこともないが、官僚や大学にはより高い道徳観が求められると個人的に思うところがあるので、なおさら残念な思いを禁じ得ない。

官僚は天下国家を論じる滅私奉公でなければならず、大学関係者は知識階級として社会を指導する責務から、世間から離れた清廉さが必要である。官僚は金で動いてはならず、己の栄耀栄華を求めてはならず。知識人は世間知らずと評されるほどに純粋に理論を追求して社会モデルを提唱していけばよい。

僕自身はこんなふうに古くさく考えているのである。学問は仮定や仮説から始まる。世間の現実から隔絶しているくらいでちょうどよい。下手に現実的になるなら、学者としての生命を終えてしまうであろう。現実との擦り合わせは実務を担う官僚の仕事である。そこに批判を加えてチェック機能を果たすのはジャーナリストの仕事である。それぞれが矜持を持って気高く職務に携わる世の中が僕の考える理想である。

今の世の中のように、矜持も責任感も道徳も失われたのは、資本主義社会における職業選択の自由が影響している。普通教育の普及と言い換えてもよい。つまり、官僚も学者も金儲け・出世の手段として見られているのだ。金を追求しているし、権力が金を生み、金を失えば権力を失うという不安定性、流動性が不正を生む一端であると思っている。

もちろん、身分制の固定社会がよいと言っているのではない。言いたいことは道徳教育や情操教育、気高い志を育てる教育がもっと注目されてもよいということである。多様性を認める社会だからこそ、お金以外のモノサシを認める土壌が必要である。権力やお金以上に名誉が重んじられる価値観があってもよいだろう。いや、むしろ、AIの登場によって、金儲けの無視できない領域でAIが侵食してくる以上、人間こそが出来ることとしての価値判断ができることの重要性を喚起したい。

問題の本質

東京医科大学の入試において、女子受験生や3浪している受験生に対して一定の得点操作をしていたことが発覚した。試験は公平に行なわれることが大前提であり、これに対する大学側の対応に非難が集まっている。大学からの反論は、女性医師は職場離脱をしてしまうことであり、医師不足を招かないための処置であるというものである。

もちろん、こうした世間の批判は当然である。しかし、この見方は些末な端に注目しすぎている。この入試問題が存在した問題の根本は、大学の不正ではない。日大フットボール問題とは問題の本質が異なる。この問題の本質は、日本の労働問題であり、さらには医療問題である。

たしかに、一部テレビ報道にあるように、「女性が働きやすい環境を作るべき」ということには一定の理解が出来る。1985年以来の女性の社会進出(男女雇用機会均等法の成立)に伴って、女性が働きやすい環境が徐々に整い始め、また少子化対策に伴ってワーキング・マザーや妊娠・出産後の職場復帰も支援されてきている。そんなところに今回の東京医科大学の事件であるから、時代の流れに逆行しているとか、あり得ない差別であるという批判が起きている。

しかし、実際の現場では苦しい状況なのも確かである。医療現場ではなおさらであろう。人の命を預かる現場において、たとえば、その日に予定されている手術があったとして、生理が始まったことによる職場離脱は誰が埋めるのであろうか。あるいは、採用計画に基づいて配置されている職員が妊娠による職場離脱をした場合、すぐに人員補給が出来るわけでもない。とりわけ、医師のような高度な専門職においては厳しいだろう。それだけの余剰人員を抱えられる病院は少ないだろう。もちろん、妊娠は女性だけで出来るものではなく、男性の側にも共同責任がある。

東京医科大学をめぐる批判は、理想論である。そして、東京医科大学の言い訳は事実に対する厳しい現実論である。実際に医者がいなくなって困るのは我々である。その時、家庭を犠牲にしても仕事に責任を持ってしろと迫るのであろうか。理想論は分かる。あるべき姿が何かも充分に踏まえている。その上でなお、目の前の現実に対処している。これが東京医科大学の置かれた立場である。だから、社会としての取り組みは、医師不足という医療問題へ真摯に取り組み、労働問題としての労働市場への改革である。そうすれば、東京医科大学の不正は発生する余地を失い、自然と消滅する。

問題の本質にあるものに手をつけずに表面だけで物事を改革してしまうことは、その後にやってくる大きな社会的不利益を生みかねない。そうなってからの対処では、医師のような高度専門職の育成は間に合わない。東京医科大学が主張するような女性医師の職場離脱を防ぐ手立てをするほうが先である。そして、これは一大学法人に出来ることではない。社会全体として取り組まねばならない。

最後に、東京医科大学は私立大学なんだし、どのような学生を望むのかも自由に決められるはずだ。だから、受験前に今回のような女子受験生や浪人生に不利となる採点方法を採用していると公表していればよかったのだ。これが差別に繋がるというならば、東京男子医科大学としてしまえば済む話である。東京医科大学には担保されるべき公平性を確保しなかったところにのみ問題がある。