学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

名誉が重んじられる社会に

8月6日に投稿した記事に関連して、今日8日の読売新聞に同様の趣旨の記事が載った。「時代の流れに逆行」との批判もあろうが、実際の医療現場で女性医師の職場離脱が問題であると指摘した小欄の記事を追認してくれる記事である。

f:id:tribnia:20180808204027p:plain

しかし、その後の報道を見ていて、1つ付け加えたいことが出てきた。文科省前局長の息子を一般入試で不正合格させていたこと、卒業生の子息を同じく不正合格させていたことである。これは純粋に大学の綱紀の問題である。前回の記事では日本大学の場合とは異なって、大学の不正ではなく社会の問題と断じて、大学側を擁護していた側面があった。これを訂正しておきたい。

官僚にしても大学にしても、道徳が崩壊している。社会的にも欠けていると感じないこともないが、官僚や大学にはより高い道徳観が求められると個人的に思うところがあるので、なおさら残念な思いを禁じ得ない。

官僚は天下国家を論じる滅私奉公でなければならず、大学関係者は知識階級として社会を指導する責務から、世間から離れた清廉さが必要である。官僚は金で動いてはならず、己の栄耀栄華を求めてはならず。知識人は世間知らずと評されるほどに純粋に理論を追求して社会モデルを提唱していけばよい。

僕自身はこんなふうに古くさく考えているのである。学問は仮定や仮説から始まる。世間の現実から隔絶しているくらいでちょうどよい。下手に現実的になるなら、学者としての生命を終えてしまうであろう。現実との擦り合わせは実務を担う官僚の仕事である。そこに批判を加えてチェック機能を果たすのはジャーナリストの仕事である。それぞれが矜持を持って気高く職務に携わる世の中が僕の考える理想である。

今の世の中のように、矜持も責任感も道徳も失われたのは、資本主義社会における職業選択の自由が影響している。普通教育の普及と言い換えてもよい。つまり、官僚も学者も金儲け・出世の手段として見られているのだ。金を追求しているし、権力が金を生み、金を失えば権力を失うという不安定性、流動性が不正を生む一端であると思っている。

もちろん、身分制の固定社会がよいと言っているのではない。言いたいことは道徳教育や情操教育、気高い志を育てる教育がもっと注目されてもよいということである。多様性を認める社会だからこそ、お金以外のモノサシを認める土壌が必要である。権力やお金以上に名誉が重んじられる価値観があってもよいだろう。いや、むしろ、AIの登場によって、金儲けの無視できない領域でAIが侵食してくる以上、人間こそが出来ることとしての価値判断ができることの重要性を喚起したい。