学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

志望動機の書き方

就職活動における学生の志望動機書を添削していると、最近の若者の傾向が分かる。そんな中でも、とくに2つのことが気になっているので、今回はそれらについて書こうと思う。

1つめは、「人目を気にしすぎること」です。志望動機とは、志すこと・望むことのきっかけであるはずだが、それが「人のためになりたい」「人を笑顔にしたい」「人の役に立ちたい」ということばかりなのだ。これらを綺麗事として遠ざけるつもりはない。こうした「名誉欲」も立派な志望動機であろう。しかしながら、就職活動の人物試験として志望動機を尋ねられたなら、それは自分を中心にした「野望」であるべきだろう。人が人がと主張を繰り返して、自分を売り込めるわけがない。

この意味で、「人のためになりたい」「人を笑顔にしたい」「人の役に立ちたい」というのは周縁にあるものだ。これらはけっして「やりたいこと」ではなく、その結果としての副産物に過ぎない。自分が主人公としてやりたいことを実行した結果、人のためになって、人を笑顔にして、そして人の役に立つのである。語弊を恐れずに言えば、人のことなんか気にせずに自分のやりたいことをトコトンまで貫くのがよい。己や己の仕事の質を高めてこそ、周囲に気を配ることが出来るようになる。

己の性格のどんな特質を何でどのように活かして人の役に立つのか。これを過去の経験などを用いて説得力を持たせながら伝えていくのが、志望動機の書き方であろう。己の性格が何か、それは社会的に、あるいは仕事上、どのようなプラスの、ないしマイナスの貢献をするのかについて考察することは自己分析であり、どのように活かせるのかについては業界研究である。

そして、気になる2つめは、この自己分析や業界研究において、自分に嘘をついているということである。自分自身でも信じていないような志望動機が述べられているのである。公務員で言えば、「少子高齢化社会を打開したい」とか「治安を守りたい」とか述べるのであるが、本気でそう思っているのか、本心からそう願っているのか、こうした志望動機を読むと、このように問いたい気分にさせられる。

少子高齢化や治安維持は確かにその通りである。いわゆる行政課題である。でも、おそらくそれは「どこかで聞いてきた他人の考え」の域を出ていない。メディアでも先生からでも、出所が何であれ、コピペにしかすぎない。そして、厄介なことに、本人も「そうだ」と思い込んでいるのである。しかし、少し質問を重ねていっても、なぜ少子高齢化社会や治安維持が本人にとって解決するべき課題なのか、いっこうに埒があかない。

本当はどこかで少子高齢化や治安維持はどうでもいいと思っているのではなかろうか。でも、そこを受験する以上、まさしくテンプレートのように「私は某に興味があり、解決したいと思っている」と述べるのである。つまり、本当の志望動機が隠れ、人受けのよい優等生的な理想の答えをどこかから引っ張ってきてしまう(コピペしてしまう)のである。ここにおいても、「人目を気にしすぎている」。

人受けのよい優等生的な理想の答えをどこかから引っ張ってきてしまうから、面接試験で「なぜ?」「どうして?」と重ねられれば、すぐに行き詰まってしまう。自分の考えではないのだから根拠に乏しく、答えられないのも当然である。つまりは「熱意」が足りないと判を下されてしまうであろう。逆に言えば、自分の心にトコトン向き合い、綺麗事を意識せずに、つまりは人目を気にせずに、自分自身が持つ生々しい気持ちに向き合うことこそ、正しい自己分析である。

もちろん、生々しい気持ちをそのまま表に出すことは社会的ではない。表に出すときには表現方法に気を配るべきである。人間関係を気にするのは、こうしたアウトプットの場面だけで充分である。内面にある自らの気持ちの形成にまで他者を関わらせる必要はない。そして、このプロセスを経た志望動機は、幾重もの「なぜ?」「どうして?」に耐えうるし、その語りには、考えに考え抜いたからこそ、熱意が充分に籠もるのである。

最後に1つ。考えに考え抜くということは、「これで結論」と思ったところをスタート地点にすることである。

今日の投稿が世の若者諸氏に資することを願っている。