学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

名誉が重んじられる社会に

8月6日に投稿した記事に関連して、今日8日の読売新聞に同様の趣旨の記事が載った。「時代の流れに逆行」との批判もあろうが、実際の医療現場で女性医師の職場離脱が問題であると指摘した小欄の記事を追認してくれる記事である。

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しかし、その後の報道を見ていて、1つ付け加えたいことが出てきた。文科省前局長の息子を一般入試で不正合格させていたこと、卒業生の子息を同じく不正合格させていたことである。これは純粋に大学の綱紀の問題である。前回の記事では日本大学の場合とは異なって、大学の不正ではなく社会の問題と断じて、大学側を擁護していた側面があった。これを訂正しておきたい。

官僚にしても大学にしても、道徳が崩壊している。社会的にも欠けていると感じないこともないが、官僚や大学にはより高い道徳観が求められると個人的に思うところがあるので、なおさら残念な思いを禁じ得ない。

官僚は天下国家を論じる滅私奉公でなければならず、大学関係者は知識階級として社会を指導する責務から、世間から離れた清廉さが必要である。官僚は金で動いてはならず、己の栄耀栄華を求めてはならず。知識人は世間知らずと評されるほどに純粋に理論を追求して社会モデルを提唱していけばよい。

僕自身はこんなふうに古くさく考えているのである。学問は仮定や仮説から始まる。世間の現実から隔絶しているくらいでちょうどよい。下手に現実的になるなら、学者としての生命を終えてしまうであろう。現実との擦り合わせは実務を担う官僚の仕事である。そこに批判を加えてチェック機能を果たすのはジャーナリストの仕事である。それぞれが矜持を持って気高く職務に携わる世の中が僕の考える理想である。

今の世の中のように、矜持も責任感も道徳も失われたのは、資本主義社会における職業選択の自由が影響している。普通教育の普及と言い換えてもよい。つまり、官僚も学者も金儲け・出世の手段として見られているのだ。金を追求しているし、権力が金を生み、金を失えば権力を失うという不安定性、流動性が不正を生む一端であると思っている。

もちろん、身分制の固定社会がよいと言っているのではない。言いたいことは道徳教育や情操教育、気高い志を育てる教育がもっと注目されてもよいということである。多様性を認める社会だからこそ、お金以外のモノサシを認める土壌が必要である。権力やお金以上に名誉が重んじられる価値観があってもよいだろう。いや、むしろ、AIの登場によって、金儲けの無視できない領域でAIが侵食してくる以上、人間こそが出来ることとしての価値判断ができることの重要性を喚起したい。

問題の本質

東京医科大学の入試において、女子受験生や3浪している受験生に対して一定の得点操作をしていたことが発覚した。試験は公平に行なわれることが大前提であり、これに対する大学側の対応に非難が集まっている。大学からの反論は、女性医師は職場離脱をしてしまうことであり、医師不足を招かないための処置であるというものである。

もちろん、こうした世間の批判は当然である。しかし、この見方は些末な端に注目しすぎている。この入試問題が存在した問題の根本は、大学の不正ではない。日大フットボール問題とは問題の本質が異なる。この問題の本質は、日本の労働問題であり、さらには医療問題である。

たしかに、一部テレビ報道にあるように、「女性が働きやすい環境を作るべき」ということには一定の理解が出来る。1985年以来の女性の社会進出(男女雇用機会均等法の成立)に伴って、女性が働きやすい環境が徐々に整い始め、また少子化対策に伴ってワーキング・マザーや妊娠・出産後の職場復帰も支援されてきている。そんなところに今回の東京医科大学の事件であるから、時代の流れに逆行しているとか、あり得ない差別であるという批判が起きている。

しかし、実際の現場では苦しい状況なのも確かである。医療現場ではなおさらであろう。人の命を預かる現場において、たとえば、その日に予定されている手術があったとして、生理が始まったことによる職場離脱は誰が埋めるのであろうか。あるいは、採用計画に基づいて配置されている職員が妊娠による職場離脱をした場合、すぐに人員補給が出来るわけでもない。とりわけ、医師のような高度な専門職においては厳しいだろう。それだけの余剰人員を抱えられる病院は少ないだろう。もちろん、妊娠は女性だけで出来るものではなく、男性の側にも共同責任がある。

東京医科大学をめぐる批判は、理想論である。そして、東京医科大学の言い訳は事実に対する厳しい現実論である。実際に医者がいなくなって困るのは我々である。その時、家庭を犠牲にしても仕事に責任を持ってしろと迫るのであろうか。理想論は分かる。あるべき姿が何かも充分に踏まえている。その上でなお、目の前の現実に対処している。これが東京医科大学の置かれた立場である。だから、社会としての取り組みは、医師不足という医療問題へ真摯に取り組み、労働問題としての労働市場への改革である。そうすれば、東京医科大学の不正は発生する余地を失い、自然と消滅する。

問題の本質にあるものに手をつけずに表面だけで物事を改革してしまうことは、その後にやってくる大きな社会的不利益を生みかねない。そうなってからの対処では、医師のような高度専門職の育成は間に合わない。東京医科大学が主張するような女性医師の職場離脱を防ぐ手立てをするほうが先である。そして、これは一大学法人に出来ることではない。社会全体として取り組まねばならない。

最後に、東京医科大学は私立大学なんだし、どのような学生を望むのかも自由に決められるはずだ。だから、受験前に今回のような女子受験生や浪人生に不利となる採点方法を採用していると公表していればよかったのだ。これが差別に繋がるというならば、東京男子医科大学としてしまえば済む話である。東京医科大学には担保されるべき公平性を確保しなかったところにのみ問題がある。

人文諸科学を学べ

最近、IoTやAIについて学ぶ機会があり、なんとなく自分の中でイメージが固まってきたので、今回の記事ではそれを記しておきたい。

今、世界は第4次産業革命の中にいるとされている。第4次産業革命という言葉自体は、ドイツが2012年から打ち出している技術戦略「インダストリー4.0」を日本語化したのが始まりであるが、その前に、第4次産業革命に至る道のりを簡単に俯瞰しておこう。

第1次産業革命では「蒸気」という新しい動力が出現した。続く第2次産業革命では「電気」と「石油」による大量生産が実現し、第3次革命では「コンピューター」が登場して自動化が進んだとされる。そして、第4次革命ではさまざまなモノがインターネットに繋がり、それを「AI」が制御するようになると言われている。

実際、Google Homeや自動運転車などの実用的な実現に触れ始めており、第4次産業革命の舳先にいることを実感できる。しかし、第1次~第3次までは「人」が中心にいたこと、そして新たな動力を得て新たな産業が生まれたという特徴を持っている。機関車はそれ以前になかった。自動車も電車もそれ以前にはなかった。コンピュータはそれ以前にはなかった。つまり、開発という意味での「ものづくり」は継続してあり続けたのである。

しかし、第4次産業革命では、新たに何かを生み出してはいない。第1次~第3次までで「人」が担っていた「作業」を「AI」が取って代わったに過ぎない。既に発明されている自動車や機械を、既に発明されているコンピュータが制御するだけなのである。物質的に新しいものが登場していない。登場したのはソフトウェアなのである。人間の頭脳に相当するプログラムなのだ。第1次~第3次までは操作する制御装置として「人」が必要であった。

ここで、第4次産業革命では「人」が不要になるという議論が出てくる。確かに、たとえば自動運転車が日常になれば、タクシーやバス、果ては電車の運転士も不要になる。あちらこちらで「人不足」を解消する処方箋が、一方で失業者を大量に生み出すことにも繋がってくる。なんとも皮肉なことである。しかし、失業にならず、ますます需要が高まる人材も一方で存在する。

それは、AIに出来ないことをするということに尽きる。すなわち、交渉・妥協を含むコミュニケーション術を持つ人材である。確かにAIは最適解を導き出すだろうが、人間社会はそれほど合理的ではない。現実的な施策としては、次善の策を採ることもあるだろうし、相手との交渉によって妥協をすることも必要である。また、ある価値観によって判断や決断をする必要も出てくる。これらは今のところ、AIが出来る領域ではない。

したがって、コミュニケーション術や確固とした哲学・思想を持っていることが必要である。これが21世紀に人間が担う領域となろう。心理学や交渉術、レトリック、哲学や思想などの人文科学に長けていることが重要な時代になったと言える。「IT土方」なる言葉は、ITに携わることが保守・開発の技術屋に過ぎないというニュアンスを含んでいる。今後、いわゆるホワイト・カラーとして生きるためには、人文諸科学の能力を身に付けなければならないだろう。

餅は餅屋へ

池上彰氏が6日、『文春オンライン』(文藝春秋社)のコーナー内で、ニュース番組に芸能人が出演していることについて苦言を呈した。30代会社員から「最近はテレビのワイドショーや報道番組にジャニーズ(事務所所属のアイドル)をはじめ、たくさんの芸能人が出ている。芸能人が報道に大きく関わっていることについて、どう考えているか」という質問が寄せられ、池上氏は、個々の番組の方針についてコメントすべき立場にないと前置きしたうえで、以下のように答えているので、コメントに沿って意見を付していきたい。

「ニュースを伝えたり、解説したり、コメントしたりする役割を芸能人が務めることには違和感を禁じ得ない」と指摘し、「人気タレントが画面に出ていれば視聴率が稼げるだろうという、さもしい発想が透けて見える」と批判。さらに「聞き手に芸能人がいる演出はありだとは思いますが、芸能人がニュースを伝えるのは国際的に見て日本ならではの奇観」とした。

僕自身も、ジャーナリストや元知事などの政治家や元官僚が学問的背景もないのに講師ではなく教授として大学の教壇に立つことに違和感を禁じ得ない。そうした「実務家」が教壇に立てば少子化時代に学生が集まるだろうという、さもしい発想が透けて見えるからだ。「実務家」が専門学校にいるのならばともかく、学問の府に我が物顔でそれらしく時事を語り、論文指導も出来ない様子は奇観である。

「ニュースを伝えるのは現場取材を積み重ねたジャーナリスト。関心のなかった芸能人にカンペを読み上げさせるのは不思議な光景」と、キャスティングに苦言を呈しつつ、「日本のテレビ界はプロの仕事はプロに任せるというルールが確立していない。ニュースはニュースのプロが伝えるべきだと思っている」と結論づけた。

まさしく大学で学問を教えるのは学問的修行を積んだ学者。学問的系統も持たずに刹那的な現場の連続に接したジャーナリストがコメントを寄せるという講義は不思議な光景である。日本の学府にはプロの仕事はプロに任せるべきだというルールが確立していない。学問は学問のプロが教えるべきである。もちろん、素養や教養として視野を広げるという意味で、学府に現場の情報を入れること自体は賛成である。この意味で、非常勤講師職・常勤講師職がある。講師は教授陣ではない。

ところで、素晴らしいコメントを『文春オンライン』に残した池上氏の経歴を最後に紹介しておこう。出典はWikipediaである。

1973年3月 - 慶應義塾大学経済学部卒業。
1973年4月 - NHKに記者として入局。
2005年3月 - 定年を待たずNHKを退職。以後、フリーランスジャーナリスト
2009年4月 - 信州大学経済学部特任教授に就任。
2012年2月 - 東京工業大学リベラルアーツセンター専任教授に就任。
2014年4月 - 愛知学院大学経済学部特任教授日本大学文理学部客員教授に就任。
2015年4月 - 名城大学特別講師に就任。
2016年3月 - 東京工業大学定年退職。
2016年4月 - 名城大学教授、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院特命教授、立教大学グローバル教育センター客員教授に就任。

他山の石と成せ

昨日のブログをアップしている時と同じくして、日大の内田監督と井上コーチの会見が行なわれていた。それにしても、ひどいもので、昨日のブログで予想したように直接的に学ぶことはなかった。しかし、「過ちて改めざる、是を過ちという」という論語の言葉を地で行く会見を「他山の石」として学んでみたいと思う。

まず、内田監督の「信じていただけないと思うんですが」という前置きはいただけない。釈明会見という性質を理解していない。最初から理解していただくという姿勢が欠如し、開き直りとも受け取れる。ここで「釈明」会見と記したのは、本人たちにとって「謝罪」会見ではなく、世間の誤解と中傷に対する言い訳、つまり「釈明」を中心に据えた会見に思えたからだ。

さらには、井上コーチが人身御供にされたとの印象がぬぐえない。内田監督を守るために、井上コーチが全部背負っていくと、彼の体育会系そのままの話し方を見ても、体育会系が陥りがちな誤った忠誠心が発露したという印象しか残らない。後味は非常に悪い。30才の井上奨コーチが62才の内田正人監督を自らの人生を犠牲にしてかばったのではないかと邪推してしまう。「前途ある有望な若者」の人生を壊した定年間近な「先輩」の身勝手である。井上氏がコーチを辞任する一方で、内田氏は進退を大学に預け、一時謹慎するという。日本人の美徳、桜の散り際とは対照的である。

また、彼ら2人とも「正直」という言葉を連発しすぎているようにも感じた。この言葉を言う必要があったというのは、よく見れば「信じてもらえない世論」を感じていたからとも言えるが、穿って見れば「嘘つきだから」とも言える。人は後ろめたいこと、嘘を付いている自覚があるときには、信じてもらおうと冗長になるものだ。今回の「正直」という言葉の連発は、「正直でない」からこそ強調する必要のあった、嘘を糊塗するものに聞こえた。言動が嘘にしか見えないから、言葉で「正直」であることを補足した。本来は言動で「真実」を感じてもらわなければならない。

この意味で、「誠実」とは言葉にせずとも「正直」が伝わるものでなければならない。内容が悪いことでも、都合の悪いことを認めて「正直」に話せば、その姿勢は誠実と映るのである。

なお、今朝、内田監督が日大病院に入院したとの報道に触れた。心や身体の不具合以外でも、都合の悪さでも入院できるが、それが系属(系列)の日大病院というのも印象がよくない。悪手ばかりをこれでもかとばかりに打ってくる。そして、会見時の司会者(広報担当者)の仕切りもひどいものであったが、日大理事長がマスコミに追撃取材された時の理事長の態度も驚くものであった(この時期に繁華街を歩いていた)。「私は関係ない。私は相撲部だ。知らないよ!しつこいね!大学と部は別!」と反応したのだ。日大関係者の質は、これで推して測るべしである。最高責任者の発言である。麻生さんでも、把握しきれない一末端役人の不祥事に関係ないとは言わなかった。

それにしても、森友問題、加計問題、そして今回の事件の取材を見るに、マスコミは捜査機関かと見紛うほどである。マスコミの逸脱した正義感は毒でもあるということもまた、付言しておきたい。

罪を憎んで人を憎まず

日大アメフト部の加害者となった男性の記者会見を見て、思うところをつらつらと書いてみようと思う。ちなみに、記録が残るインターネットの特殊性に鑑み、彼の将来を応援する意味でも、ここでは彼の名前などの個人情報は載せないので、もし、コメントする人は留意して欲しい。

まず、厳しいことを言うようだが、「ごめんで済むなら警察はいらない」という慣用表現があるように、彼のしてしまったことは消えない。彼自身の言葉で言えば、どんな経緯があったにしろ、「してしまったのは自分」なのだ。「殺せ」と命令されても殺さないのが普通の感覚のはずだ。

とはいえ、この認定はすごいことだ。彼が酒に酔って記憶がなかっただの、籍があるなら戻りたいなどと言わずに、自分のしたことだと率直に認め、アメフトはもうやらないと言い、自分のことだけで今は精一杯で他者のことまでは頭が回らないと批判を回避し、そして目の前のことに精一杯で未来のことは何も考えられないとしたところは、某元アイドルとは雲泥の姿勢であったと思う。

もっとも、今回の例のように、就職先や今後の部活動を握られてしまっては、高校時代から一途に好きなスポーツに打ち込んできた純粋な気持ちを考えると、彼には他に選択肢はなかったとも受け取れる。このあたりを世論は汲み取っている。実際、好きだったアメフトを好きではなくなってしまったという彼の発言には、胸が詰まる思いであった。

彼が犯した過ちは過ちとして消えないとしても、顔と名前を全国に晒しての異例の記者会見で社会的制裁を既に受け、そして充分に反省をしているなら、情状酌量の余地は多分にあるだろう。そうした世論はしっかりと形成された。もちろん、被害者本人を筆頭とした被害者側の気持ちが最優先されてしかるべきではある。映像を見る限り、被害者側に非は一切ない。

また、前途ある若者だから、まだ先の長い人生があるからというのは、的外れな擁護論だと思う。自己の身勝手な都合で快楽的に犯罪をした若者が、更生の余地はないから死刑だの終身刑だのという世論も耳にするからだ。法は等しくなければならない。若さや前途を云々するのではなく、やはり、擁護すべきは、他に選択肢がなく追い詰められていた点(広義での自己防衛であった点)、事後に深い反省をしたという点である。そして、無罪放免ではなく、情状酌量をした上での処罰が適当であろう。

さて、こうして事件を振り返ってみると、教訓がある。ある集団(組織)内にだけいると、世間の常識から乖離してしまうことがあるという教訓だ。少し冷静になれば簡単に分かることでも、ある集団の中にいて、他との接触が少ないと、そこでの異常性に気がつかなくなる。今回の事件でも、日大アメフト部というのが彼にとって全世界であったのだ。「事件」となって集団の外に出て初めて、自分のしたことの恐ろしさを認識したとみることも出来るだろう。

良識と常識」の記事でも書いたが、常識はとてもあやふやなものである。自分の周囲だけが世間、その世間が世界のすべてだとならないよう、学校や会社の外に出てみることも、きわめて重要なことだと思う。こういう教訓を得た次第である。今回の記事では日大のていたらく、不始末は書いていない。それは本人による弁明がまだないからだ。日大の対応が出てきたら、その時にまた教訓があったら書いてみたいとも思うが、彼らに学ぶところは少ないように思う。

常識と良識

こうした概念の問題にあたるときは、まずは辞書(広辞苑)を引いてみる。

常識

普通一般の人が持ち、または、持っているべき標準知力。
専門的知識でない一般的知識とともに、理解力、判断力、思慮分別などを含む。

 

良識

偏らず適切・健全な考え方。そういう態度の見識。

さて、こうしてみると、「常識」のほうが「良識」よりも次元が低いことが分かる。「常識」は最大限に身につけたとしても「標準」「並み」レベルである。このことは続く「専門的知識ではない」という記述からも読み取れる。つまり、普通の人が普通に社会の中で集団生活を営むにあたって不足のない知力を意味しているのである。

一方で、「良識」のほうは「偏らず」という部分より古今東西に通じた幅広い知識が必要になり、こうした知識を持って「適切」かどうか、「健全」かどうかを判断することになる。したがって、広辞苑が「良識」を「知力」でなく「見識」とすることも理解できる。つまり、「あるべき姿」「本来の姿」を知っているということが求められている。これらに基づいて冷静公平に判断する見識が「良識」であると言える。

とするならば、「良識」は「理性」にほぼ等しい使われ方をしていることになる。「理性」による判断、すなわち「良識」は人、場所、時代を問わずということになる一方で、「常識」は社会、国や時代によって変わってくるものである。「良識」が真理に基づく絶対的な判断なのに対し、「常識」は一緒にいる集団によって相対的なものになる。こうして確認してみると、2000年近く前に書かれた「論語」などの古典が今も人々の物差しとして機能することにも納得がいく。

というて、「良識」を杓子定規に当てはめて柔軟性に欠けば、これもまた「良識」に反することとなろう。つまり、「良識」は「うまく用いること」がなければならない。「常識」は、所属する社会での生活を営む上での知力なので、世の中に折り合いをつけてうまくやっていくという性質を概念の中に含んでいるが、「良識」のほうは、ともすると社会や世間と対立してしまう。

社会のほうが偏り、不適切で不健全な状態にある場合、そして、往々にして実際の世の中はこんなものであるが、こうした場合には「良識」は社会と鋭く対立してしまうであろう。「良識」を備えた人は社会では生きづらくなる。煙たい人物であろうし、面倒くさくて厄介な人物であろう。しかし、僕はそれでもなお、社会に否と言い、社会と鋭く対立しても不偏不党の適切・健全な在り方を説く「良識」の存在を決して忘れてはならないと思う。

周囲の人々がそうだからと安易に流されているようでは民主主義は成り立たない。大多数の人々が右を向けと言っている中で、それでもなお正しいのは左を向くことだと言える人物こそ、民主主義を成り立たせるのに欠かせない人物である。むしろ、民主主義はそうした人々の存在を前提にして制度設計された。だから、近代民主主義国家は義務教育を備えるのだ。教育によって古今東西を学び、広く、そして偏らない見識を身につけるよう、国家の構成員に要請しているのである。

はたして、教師の中にこうした矜持を持って教壇に立っている人がどれだけいるだろうか。教師と言わずとも、部下を持つ人、年長者は、少なからず、教育者である。この記事を読んだ人が「教師」としての戒めを胸に持ってくれることを願う。人の鑑となっている部分は、誰にでもあるのだから。