学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

常識と良識

こうした概念の問題にあたるときは、まずは辞書(広辞苑)を引いてみる。

常識

普通一般の人が持ち、または、持っているべき標準知力。
専門的知識でない一般的知識とともに、理解力、判断力、思慮分別などを含む。

 

良識

偏らず適切・健全な考え方。そういう態度の見識。

さて、こうしてみると、「常識」のほうが「良識」よりも次元が低いことが分かる。「常識」は最大限に身につけたとしても「標準」「並み」レベルである。このことは続く「専門的知識ではない」という記述からも読み取れる。つまり、普通の人が普通に社会の中で集団生活を営むにあたって不足のない知力を意味しているのである。

一方で、「良識」のほうは「偏らず」という部分より古今東西に通じた幅広い知識が必要になり、こうした知識を持って「適切」かどうか、「健全」かどうかを判断することになる。したがって、広辞苑が「良識」を「知力」でなく「見識」とすることも理解できる。つまり、「あるべき姿」「本来の姿」を知っているということが求められている。これらに基づいて冷静公平に判断する見識が「良識」であると言える。

とするならば、「良識」は「理性」にほぼ等しい使われ方をしていることになる。「理性」による判断、すなわち「良識」は人、場所、時代を問わずということになる一方で、「常識」は社会、国や時代によって変わってくるものである。「良識」が真理に基づく絶対的な判断なのに対し、「常識」は一緒にいる集団によって相対的なものになる。こうして確認してみると、2000年近く前に書かれた「論語」などの古典が今も人々の物差しとして機能することにも納得がいく。

というて、「良識」を杓子定規に当てはめて柔軟性に欠けば、これもまた「良識」に反することとなろう。つまり、「良識」は「うまく用いること」がなければならない。「常識」は、所属する社会での生活を営む上での知力なので、世の中に折り合いをつけてうまくやっていくという性質を概念の中に含んでいるが、「良識」のほうは、ともすると社会や世間と対立してしまう。

社会のほうが偏り、不適切で不健全な状態にある場合、そして、往々にして実際の世の中はこんなものであるが、こうした場合には「良識」は社会と鋭く対立してしまうであろう。「良識」を備えた人は社会では生きづらくなる。煙たい人物であろうし、面倒くさくて厄介な人物であろう。しかし、僕はそれでもなお、社会に否と言い、社会と鋭く対立しても不偏不党の適切・健全な在り方を説く「良識」の存在を決して忘れてはならないと思う。

周囲の人々がそうだからと安易に流されているようでは民主主義は成り立たない。大多数の人々が右を向けと言っている中で、それでもなお正しいのは左を向くことだと言える人物こそ、民主主義を成り立たせるのに欠かせない人物である。むしろ、民主主義はそうした人々の存在を前提にして制度設計された。だから、近代民主主義国家は義務教育を備えるのだ。教育によって古今東西を学び、広く、そして偏らない見識を身につけるよう、国家の構成員に要請しているのである。

はたして、教師の中にこうした矜持を持って教壇に立っている人がどれだけいるだろうか。教師と言わずとも、部下を持つ人、年長者は、少なからず、教育者である。この記事を読んだ人が「教師」としての戒めを胸に持ってくれることを願う。人の鑑となっている部分は、誰にでもあるのだから。