学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

手帳準備

さて、今年9月以降の僕の手帳は、手のひらサイズになりました。半年ほど残っている1日1ページ手帳は引き続き自宅で記録を残していくとして、こちらの手帳は基本的には持ち歩きます。9月以降の秋学期からは講義後にメモを残していけるようになりますし、人と会って話したことや約束事をその場で書き込んでいけるようになります。これは、短くまとめて書いても意味が通じる程度に仕事内容に慣れたらからこそ出来るようになったことです。そうなるまでは1日1ページ手帳に細かく書いていきますね。

f:id:tribnia:20160810204121p:plain

表紙には名前の代わりに家紋を貼りました。最後のページには付箋を4種類用意しています。上の方の緑、青、赤は手帳に書いた内容について、後で見返す必要のあるものや忘れては困ることが書いてあるところに貼ります。色は緑はお仕事、青は自分自身、赤は友達とのことというふうに役割を持たせています。下の大きな黄色は、数週間にわたる作業を書いて、時折、貼る場所を変えていくようになっています。そして、役目を終えたものはどんどんと剥がしていきます。これが爽快ですね。

また、裏に挟める程度の、ミシン目の付いたノートを入れてあります。メモとして相手に渡してしまうこともありますし、ウィークリーで書く場所が足りなくなった場合に書き、上部を糊で貼り付けて増ページとしています。ウィークリーのページには、右下に縮小コピーした書籍の表紙を貼り付け、読書録とか、忘れたくない書物を貼り付けています。そして、表裏の表紙裏には「個人憲法」(7つの習慣)のようなものを貼り付けてあります。

座右の銘とかそういうものは、日常的に目に入る場所に置いておかないと忘れてしまいます。年の初めに思ったことなどは3ヶ月持たないうちに記憶の彼方に消えてしまいます。これでは実現は絶対にしません。ですから、僕は手帳を開くたびに目にするようにしています。ちょっとした書き物風にしておくと、暇な時間に読むことになります、何度も何度も。すると、翌年には別の目標を立てられますよね。

ちなみに、今回、表紙裏に貼った「名言」をご紹介して、今回の投稿を終えよう。これらの言葉は、どこかで出逢って「おっ!」と思ったものを書き留めてきたもので、出典は分からない。ま、自分の手帳に貼る物だし、そこまで正確さを求めてこなかったので、詳細についてはお許しありたい。

 

感情で仕事しちゃいけない。しかし、感情のない仕事はしちゃいけない。

残業自慢・寝てない自慢は、無能自慢。

すべては段取り。

アウトプットが悪いのは、インプットが足りていない証拠。

できなかったことは、面倒くさがったことか、勇気を出さなかったことのどちらかだ。

仕事は「間に合わない」ではなくて、「間に合う中でどうするか」だ。

駄目な奴を動かしてこそ、マネジメント。

二兎を追う者しか二兎を得られない。限界を自分で決めるな。

聞くは一時の恥。聞かぬは問題外。

言われて動くのは「作業」。自分から動けば「仕事」。

「自分は無能」と思うことが成長の始まり。「自分は有能」と思うことが不調の始まり。 

手帳と僕

さて、今日から8月になり、ラインの手帳の話題もチラホラとネットでヒットするようになった。僕は手帳にはかなりこだわりを持っている。手帳にというより、文房具にと言ったほうが正鵠を得ているかもしれない。手帳を含む文房具は僕の生活の中心であり、より良いものを、使いやすいものを、と試行錯誤を重ねている。

話を手帳に戻すと、僕は手帳には2種類を使い回してきている。一つは「1日1ページ」のもの。もう一つは「レフト方式バーティカル」である。

「1日1ページ」は、その名の通り、1日1ページなので、その日の出来事をたっぷりと書くことができる。日記のように書くこともあれば、出掛けた先のチケットを貼り付けることもあれば、読んだ本の表紙画像を貼り付けることもある。友人と話した内容や担当した授業での気付きを書き込むこともある。

こうしたやり方は、なにか新しく始めようとする年や、新たな取り組みなど、不慣れなことがある年に使用してきた。段取りやプロセス、流れが把握できていないうちは、細かなことまで書き込んでいくと、次回に似たような事案が起きても容易に対処しうるし、いつでも「何をしたか」の確認ができるからだ。その日その日の小さなつぶやきが大切になることもある。

もう一つの「レフト式バーティカル」は、手帳を開くと左側にバーティカル(縦に時間軸をとった)週間予定表があり、右側に方眼のメモ用紙が付属しているというタイプのものである。仕事や新プロジェクトに慣れてきたら、予定は左側で一週間分を管理し、右側に主だった情報を記載していく。「1日1ページ」では管理しづらい一週間の流れを把握できる。仕事に慣れるまでは局所的な見方のほうが役立つが、慣れてくると1週間を俯瞰できるほうが都合が良い。

昨年と今年の僕は「EDiT」を活用してきたが、来年は「レフト式バーティカル」にしようかと考えている。しかし、ここから先が悩ましい。この「レフト式バーティカル」はもっとも人気の形式で、多くの手帳が販売されているからだ。どれを選ぶか、大きさ、厚みなど、いろいろと検討しなくてはならない。「1日1ページ」は基本的に自宅に置いておくが、「レフト式バーティカル」は持ち歩くことが基本だ。コンパクトで薄いことがなによりの条件となる。

しかし、それらに加えて、文字が裏抜け・裏写りが問題である。裏抜けしたら次ページが読めないし、裏写りをしたら読みづらい。紙質をよく見定めなければならない。さて、来年はどうしようか。実はこの頭を悩ましている瞬間が楽しい。

電車へGO

さて、世界中で旋風を巻き起こした「ポケモンGO」が日本でも配信され、大きな話題となっている。経済効果や引き籠り外出効果など、プラスの要素がかなり大きな要素として伝えられている。

しかし、世界各国同様、マイナスな要素も発生している。名古屋市で「ながら自転車」でひったくり被害、岐阜市で「歩きスマホ」で高速道路侵入、倉敷市で「ながら自動車運転」で3人逮捕、札幌市で「ながら自転車」同士で衝突、他にも佐賀県兵庫県宮城県で道交法違反で各一人逮捕など、事件・事故が相次いでいる。立ち入り禁止地区や私有地への無断立ち入りなどの犯罪も発生しているという。まだ聞かないが、そのうち、駅ホームでの歩きスマホによる「電車へGO」が発生するかもしれない。

僕は、どこかの外国であったような、崖から落ちて転落死のようなケースは、自己責任で問題をあまり感じないが、道路上を含む公共交通機関等での事故には納得がいかない。たとえば、赤信号で交差点に進入した場合、あるいは道路に飛び出してきた場合、それでも車が100%悪いとなる。常識的には加害者なのに被害者となり、常識的には被害者が加害者となって、最悪のケースでは、自動車運転者の人生が潰える。

幹線道路で順調に時速50キロで走っているところに交差点とはいえ飛び出してきたらブレーキも間に合わないだろう。それでも前方不注意というなら、常に時速20~30キロ前後で走らねばならず、円滑な交通は維持できない。高速道路でも歩行者が侵入してくるかもしれないなどと警戒していたら、高速走行は不可能である。バカバカしい限りだ。「電車へGO」にしても、何百万人の足が乱れることを考えれば、迷惑きわまりない。

個人の自宅が「ポケモンGO」のスポットになっていたり、公園や庭園、お店などがスポットに指定され、元々の利用者が迷惑を被る。個人の自宅はもちろん、利用料金を取る公園・庭園やお店などはゲーム会社を訴えてもいいように思う。了解なく勝手に指定しているのだから。店舗などは、元々の利用者を大切にしないで一時的な目先の利益を狙うなら、去った常連客は戻ってこなくなる。アメリカでは自宅内に侵入した人に発砲をして追い払ったというが、その怒りは理解できる。

他人の被る迷惑を考える、世間の目を気にするといった「社会性」が低下しているのだろう。「社会性」は人間生活の基本である。熱しやすく冷めやすい国民性ゆえ、一日も早くブームが去り、平穏な日々が戻ってくるよう、切に願う次第である。

知の源泉としての哲学

f:id:tribnia:20160724091451j:plain

この画像は、とある本屋さんの一角である。「哲学」という言葉が面と向かってタイトルにある本が多いことに驚く。少し前には「哲学」は難解で、なんとも近寄りがたいものとして敬遠されてきたように思う。せいぜいがビジネス書として誰かの「人生哲学」とかいった類いのものだったように思う。いわゆる学術的な哲学は、口にする人も「やっかいな人物」という印象があったように思う。それが「哲学」を前面に打ち出し、さらには噛み砕いたポップなものとして、類似本が数多く出版されていることに驚きを禁じ得なかった。

最近の出版界は、二匹目のドジョウ戦術で、一つ何かがヒットすれば類似品が次から次へと出てくる。2015年前半までは学術的色彩が強いが、2015年後半からはポップなものが相次いでいる。出版不況と言われている割には、出版される本の数自体は増えているのである。それらが売れていないというだけの話であり、購入者が拡散してしまって一冊あたりの売れ行きも伸びきれないという次第である。だから、「哲学」を面と向かって謳っていても、一般読者が、出版されているほどの哲学本を求めているというわけではない。

とはいえ、一定程度には人々が「哲学」を求めているということではある。哲学は「愛智学」と直訳される。Philo(愛する)と sophy(智恵)の合成語である。こういうところからすると、人々は、知っていれば済むだけの「知識」ではなく、「知識」を活用する「智恵」を求めていると言い換えることもできるだろう。「知性」が今ほど求められている時はないのかもしれない。

しかし、これらの書物が、噛み砕いて分かりやすくかつての哲学者の主張を伝えてくれたとしても、それを「知識」として蓄積するだけでは、「知性」の源泉とするのには意味がない。「哲学」は知のフレームワークとして活用しなければ意味がない。「7つの習慣」などの書物と同じく、書かれていることを実生活の中で活かして初めて意味が出てくる。この意味で、今、多く出版されている本は、それほどの貢献をすることなく、一時的なブームで終わるのではないかと思う。

学術の世界では、「理論と実践」というものが重要視される。理論だけでは頭でっかちになるだけだし、実践だけでは要領が悪い。理論と実践は車の両輪である。片方だけではうまく走らない。「哲学」は考える枠組みを提供するものだから、どれか一冊、取り組みやすいものを購入して、そこから響いたものをいくつか取り出して、日常生活の中に取り入れていくことがいいだろう。10冊を読んで何も手にしないよりも、1冊を読んで、その20%でも実践に繋がったほうが有益である。

人が言葉を持つということ

f:id:tribnia:20160722222014p:plain

さて、こういうのは、どのように解釈したらよいのだろうか。さんざん中国は攻めてこない、自衛隊はいらない、米軍はいらないと言ってきた人々が、目の前に脅威が迫ると、このように言い始める。ともに酒を酌み交わして理解し合い、9条を盾に脅威に立ち向かわず、こうなると黙り込む。

中国側は海軍フリゲートを出してきている。フリゲート駆逐艦巡洋艦の一つ下のクラスで、主に哨戒や補給に使われるものであるが、軍属であるので海保での対応はきつい。海上自衛隊の出番ということである。翁長知事のこれまでの言動からして、この要請はどういうことだろうかと頭を悩ませてしまう。こした自体を想定して準備をしておくのが政治家の務めだ。事が起きてからでは遅い。泥縄の後手対応は、政治家がもっとも嫌うものでなくてはならない。

このところ、政治的な記事が多く、それを通して僕の政治的信条も記事の中に漏れているとは思うが、僕は決して自民党支持でも民進党支持でも、その他の政党支持でもない。僕は単純に「言葉に信を持つ政治家」を信用する。「人」と「言」が揃うとき、「信」(人偏に言)ができる。言動が一致していない政治家にどうして代表を託せようか。

しかし、これは、政治家という公人ゆえに表沙汰になっているのであって、例として引き合いいだしているのであって、僕の真意は「言葉を大切にせよ」ということだ。言葉を大切にするには、思考をしっかりとしなければならない。ここ最近の僕の投稿は、これのみを伝えるためにある。一貫性という原理原則に則して考える。自民党だから、民進党だからという支持の仕方はしない。現実的に考えて、筋が通っているかどうかが大切だ。

その上で、選挙であれば自らの信条に近い人を選ぶ。でも、反対意見を持つ相手でも、筋が通り、発言や思考にブレがなければ敬意を払う。考え方は様々であり、それぞれである。自らと意見を異にする相手に、意見が異なるという理由で退けることはしない。ご都合主義でその場その場で適当なことを言っている人を軽蔑する。

結局、世の中は、人の世の信用というものは、こういうものなのではなかろうか。

盗っ人猛々しい

今日は暦では「大暑」。24節気の一つで、一年で最も暑い日と言われるが、僕の住む関東では梅雨明けが遅れ、23℃と5月の陽気である。季節感が狂う昨今ではあるが、狂ってきたのは人の感覚、人の常識も同様のようだ。

奨学金を巡る問題が、少し前から巷間話題になっている。政府も「給付型奨学金」創設の検討をしているという。この問題は、一括りに「奨学金を負っている人」を対象とするには、語弊を生じる。奨学金の趣旨を鑑みて、受け取るにふさわしい人が存在するからだ。僕が問題としたいのは、大学へ進学することを当然視し、返せないことを開き直り、帳消しにしろと「強く要求している人々」だ。

これは、今の時代、多くの人が車を持ち、家を持っている(借りている)。だから「車や家を買いました」「ローンをしました」「払えないから払いません」「もちろん、車も家も僕のもの」「政府が徳政令を出すべき」という暴論と同じである。「奨学金」という表現が悪く、「学生ローン」「教育ローン」と改めるべきだとの主張はもっともだと思う。利子や負担割合は大きく異なるので若干の語弊は生じるが、それでも「借金」という本質は変わらない。

しかしね、借金を背負ったのなら、学生時代の節約やバイト収入を貯めていくとか、そうした慎ましい生活を送る覚悟をせねばならない。車や家のローンを背負ったのなら、それなりに節約・倹約に努めるのは普通であろう。普通の生活をして楽しい学生生活を送り、勤労収入でもない収入もどきを得て勘違いした生活を送り、そのツケが回ってきたら返さないというのは、もらい者勝ちではないだろうか。そんな資金を提供する人はいない。それを国としてやるというなら、納税者として僕は反対である。

このことは、生活保護でも同じである。生活保護を受給するのはかまわない。しかし、それは「平均的な普通の生活」をするのではなく、「最低限の生活」をする慎ましいものであるべきだし、権利として図々しく主張するものではなく、申し訳ない気持ちを持って感謝するべきものである。普通の生活をして学生生活を謳歌して、その費用をよこせとはおかしい話である。苦学生を見れば援助をしようと思うが、やれ飲み会だのやれ遊園地だのということにお金を使い、本を買うお金がないという学生を援助する気にはなれない。

僕の知り合いに、朝に新聞配達をして学費を稼いだり、親に大学進学を反対されて高卒で働いて学費を貯め、20才から大学へ通った人もいる。大学進学は、「みんなが通うから僕も」という類いのものではない。なにをしに大学へ行くのか、費用対効果も考えて、大学で得ることについて、真剣に考えるべきことである。家を買うのは一生の買い物として、よくよく検討するものである。同じように、若い20才前後の時間と数百万円というコストを考え、それで通いたいとするなら、行くべきである。そういう人が進学しようという際に経済的困窮にあるなら、助けようというのが奨学金の本来の趣旨である。

もちろん、社会や大学の責任もある。社会は大学へ行くことを採用の条件にしたり、大学も中身のない遊び場と化している内容を改めるべきである。社会は大卒でなくてもできる仕事に大卒資格を求めないことを、大学はきちんと高度な専門性を身につけなければ学位は授けないという厳しさを持つべきである。実際に工学や薬学などの理系学部では就職率が高い。それだけの専門性を有しているからである。一方で、社会はすでに大卒レベル給料(高い専門性に対するコスト)を維持できず、大学は経営のための学生確保に走っているというような現状こそを改めるべきである。

格差社会というような社会問題の側面もあろうが、奨学金返済をできないという人は、果たしてどのような学生生活を送っていたのか、大学で習得する高い専門性を身につけるべくどのような努力をして身につけたのかと自問してみるべきである。努力だけではダメである。きちんと結果を得たのかということは重要である。一生懸命に取り組んでも、サービスの質が悪ければ、その人は職を失う。これは社会の現実である。それでも金をくれというのは、おこがましい甘えではなかろうか。

本当に学費を必要とする学生には、給付型奨学金を給付してもよいと思うし、そのための制度作りにも賛成である。しかし、財政難の国家や地方自治体の状況を思えば、垂れ流すわけにはいかない。学生は学生で、そうした制度に感謝し、精一杯に高い専門性を身につけるべく勉強に励むべきである。大学教育が与えられて当たり前というような厚かましい考えは捨て、自分の行為と成果に社会が応援してくれるものと捉えるべきものである。そこで身につけた高い専門性を活かして社会へ還元していくからこそ、先行投資として社会が学生に給付するのである。だから、行為を慎ましく、成果を出すべく努力する。これが本来のあるべき姿である。

まじめに生きている人たちが苦しんだり馬鹿を見るような不公正を正し、遊び金を手にしてたいした成果も出せずにいる者には、約束が違うと厳しく借金取り立てをしてほしい。もちろん、借金をしても、きちんと返すなら、どのような使い方をしてもかまわない。しかし、奨学金は利子率などを含めて優遇されている借金である。あまりにも怠惰な使い道については、給付者としての社会が学生に苦情を言うこともできるようにするべきだ。

たとえば、単位をAレベルで何個以上取得すれば給付型に、そうでなければ無利子貸付型に、最低ランクや単位を落とした場合には通常の利子率適用に、というような制度設計もよいかもしれない。ちなみに、本気で学び、優秀であれば、現状でも企業や団体などが給付金型奨学金を提供していることは、強く伝えておきたい。

都知事選で推す候補表明

東京都知事選が展開されている。およそ候補者の公約なども明らかになってきた。そこで、ブログも一つのメディアであるから、欧米のメディアに倣って、当ブログでも政治的立場を表明しようかと思う。特定の思想がどうというのではなく、今回の都知事選においてどうかという検討をしたいと思っている。したがって、政党の支援は考慮の外に置こうと思う。とはいえ、最近の政党に原理原則や主義主張があやふやになっているところがあるので、どの政党が誰を押しているのかについては、思想的な検討を要しないであろう。政争や勢力争いによる呉越同舟状態であるのだから。

さて、当ブログでは、過去最大数の21人の立候補者がいる中で、小池百合子女史、増田寛也氏、鳥越俊太郎氏(立候補表明順)について考察をしたい。この3候補による三巴戦になると思っているので、他の候補には申し訳ないが、ここで評論しない。もし、この3候補以外の候補者が当選したら、当ブログの不明が明らかになるということだ。

まず、真っ先に僕が支持しないと決めた候補は、鳥越俊太郎氏である。一つには年齢が問題である。4年後には80歳になるだけでなく、4度の癌を患ってきたことに対する健康不安もある。桝添前知事が67歳にして毎週のように温泉保養に出なければならぬほどの激務である都知事職が、より高齢の健康不安を抱えた人に勤まるとは思えない。もう一つには、立候補表明の時の記者会見である。都の施策について、「知らない」「分からない」の連発は、都政を任せてみたいとは思えなかった。

また、彼が第一に掲げた政策は「癌検診100%」である。池袋での公示後初の街頭演説では、平日にプラカードを持った人々が押し寄せていたが、これも不安材料の一つ。普通の人の集まりでなく、市民団体に囲まれている印象を受けてしまった。一方で、こんなにも「癌検診」を支持している人がいるとは思わなかった。僕自身は、それよりも東京の少子高齢化対策のほうが大切だと思っている。

次に支持しないと決めた候補は、増田寛也氏である。彼のことは2014年のいわゆる「増田レポート」以来、注目していた人で、彼の主張には一目も二目も置いているし、多くを彼から僕は学んだ。そこでの主張は、やや乱暴な要約ではあるが、東京一極集中を改め、東京から人口を拡散し、東京の予算を地方にぶんどるというものである。どこか地方の首長であるなら応援をしたいが、こと東京の首長としては不適格であるように思う。東京を衰退させかねないからだ。

日本全体で見れば均すことはよいが、都知事であれば、それは他からの要求に応えての交渉や、国からの圧力に抵抗しながらも応えていくという方向になるはずで、最初から東京の首長が地方への分散を処方箋として持っているのには不適切と感じる。地方への移住を通して東京の医療・介護不足を補い、東京から発する日本の危機を地方活性化で解決しようと提案してきた増田氏には、ぜひとも東京以外で知事に立候補されることを勧めたい。

ということで、消去法的に小池百合子女史が東京都知事にふさわしいとの結論に達する。小池女史にしても不安がないわけではない。政界の渡り鳥で権力者を嗅ぎ分けて生きてきたところに誠実さを感じないし、秋葉原でコスプレをした自らの過去を述べ、東京全体をアニメランドにと迎合する姿勢を、僕は快しと感じない。秋葉原で東京をアニメランドにと叫ぶことは、権力者を嗅ぎ分けてきた嗅覚のなせる技なのかもしれない。

しかし、主張していることがもっとも明確で、抽象的なスローガンに留まる他候補とは一線を画している。2005年以降、東京10区を基盤としており、東京の事情に詳しいというのも強みであろう。一つだけいただけないのは、都議会の冒頭解散を公約に掲げたこと。知事には地方議会の解散権はない。つまり、権限にないことを確約したわけで、これは問題と思う。もっとも、冒頭で議会と対立し、世論が都議会をして不信任案を出させるように追い込ませられるならば、それに対抗して議会解散もできようが、ややアクロバティックな策であり、その実現性は低いであろう。解散されると分かっていて知事に不信任案を突きつけるような都議会ではなかろう。

つまり、小池百合子女史にしても、積極的に支持する理由はない。しかし、現実的に考えた結果、もっともマシだという判断である。21人という史上最大の立候補者数を得ながら、なんとも寒い状況だなぁとは思う。それは、劇場型大衆政治がもたらした結果であり、国民(都民)一人一人の選択の結果である。だからこそ、当ブログでは過去の様々なモノサシが通用しなくなる中で、しっかりと一緒に考えていきましょうと呼びかけているのである。僕もこのブログという場を借りて、思考停止に陥ることなく、しっかりと思考を積み重ねていきたいと思っている。