学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

ブーメラン

最近の政治家、マスコミ評論家、運動家にたいして、言葉をないがしろにしているなぁと強く感じる。公的な場で発言をして、その自分の発言の重み、影響力を考慮できていないばかりか、その場しのぎの軽い言葉が横行している。あまりにも発言が軽いので、一つ一つの発言の意味すら考慮できていないのではないかと危惧する。ケースバイケースで発言するから、発言を抽象化した後、その発言が過去の自分自身の言動に跳ね返り、自己崩壊するパターン、すなわち、「ブーメラン発言」が相次いでしまう。

「言葉を出すまでは、あなたが言葉を支配しているが、いったん言葉を出してしまえば、今度は言葉があなたを支配する」という箴言がある。口にしたらそれを守らねば信義に悖るということだ。つまり、言ったことをないがしろにするかしないかは、その人の信用問題である。西洋の言葉を待つまでもなく、我が国にも「武士に二言はない」という文言がある。口にしたことは意地でも守るという姿勢が、信頼関係で成り立つ人間社会においては、きわめて重要なことだ。武士という支配者階級において、「二言」を持つことはタブーである。これを破るなら、その人の周囲の人間関係は崩れていくであろう。

言葉に注意をするということは、しっかりと思考することに繋がる。目の前にある一つの具体事例だけで考えず、そこから出発して抽象化し、原理原則に照らして間違っていないかと確認することが必要である。そのためには、原理原則という自分の信念をしっかりと持っている必要がある。そうして初めて、公的に発言ができる。口に出す言葉は思想を表すもので、その人の発言はその人の性格や思想を如実に表す。「うっかりと本音を漏らす」とか、「ほら!本音が出た!」というが、言葉に本音という、その人の思想が表れるものだというのは、一般的な了解事項であろう。

マザー・テレサの言葉に、「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから」というのがある。思考、言葉、行動、習慣、性格、運命という順に注目である。それぞれの積み重ねが次のものを呼び込む。ということは、思考と言動に慎重であれば、やがては運命をも変える力になるのである。

先に述べたように、人間関係は信用、信頼、信義である。これによって周囲にどのような人々が集まるかが決まる。それは最終的にはその人の生活環境という運命的なものに影響してこよう。誰と出会い、どのような影響を受け、どのような人生を歩んでいくのか、「住んでいる世界」が定まる。これは自らの境遇を単純に環境のせいにしないで、自分の影響力を行使できるところから始めて、最終的には自分の環境を支配するところに繋がる。今の環境は過去の自分の思考、言動に拠るものなのである。

だから、かつてチェスターフィールド卿は「付き合う友達を選べ」と息子に助言をしたのであろうし、「仲のよい友達を3人連れてくれば、君がどんな人物か述べよう」と言ったのである。現在の環境は、その人の人物に拠るのである。だからこそ、公的な言葉については、思考を練り、それと反することのない発言を心懸けるべきである。

と、ここまで書いて、昨今の政治家、マスコミ評論家、運動家には、思考が足りないのだなぁと思ってしまう。自らの信念がぶれていて、その場、目の前にある具体的ケースだけで「人を批判すること」が目的化しているから、その自らの発言が自らに降りかかってくることすら分からないのである。あるケースで「思ったこと」が、どのような考え方に繋がるのかを考え、矛盾をしていないかどうかチェックをしていく中で、自らの原理原則に気づけるであろう。それが明確になったら、その後の発言はより容易になる。

もちろん、経験を重ねていく中で原理原則の微調整も恐れずにしていかなければならない。変化をしてはならないという頑固なものではないからだ。かつてチャーチルは、「若いときに左派でないのは情熱が足りない。年をとって左派なのは知性が足りない」と言ったが、年齢とともに主義主張・原理原則が変化するのは当然のことである。変化よりも大切なことは、自らに向き合い、不断に思考を練り混んでいくことではなかろうか。

主権者として考えよ

陛下の生前譲位にまつわるニュースが14日(木)午後7時、NHKによりスクープされた。まず、指摘しておきたいことは、この話題はスクープ記事には馴染まない。宮内庁の公式発表を待つべき内容であり、宮内庁への取材を進めていく中で宮内庁声明として引き出す性質のものである。海外メディアも一斉に報道したが、それほどの内容である。また、スクープされても陛下も宮内庁も困る内容であって、スクープ記事を出せばスクープ内容が白紙に戻ってしまうような性質を持つ。

まず、生前譲位に対する陛下のお気持ち表明は、きわめて政治的性質を伴う。陛下の発言が政治的影響力を持つことは、現行立憲主義の立場から不適当である。陛下の政治利用は君主制民主主義を否定するものである。政治的責任とその追及を陛下に負わせないために、陛下は政治的中立のお立場にある。政治的責任とその追及は、内閣が負うのであって、だから陛下の公的活動にはすべて「内閣の助言と承認」を必要としているのである。陛下の国事行為に問題を生じても、「助言と承認」を与えた内閣に責任がある。

また、江戸時代に徳川幕府に対する政治的圧力として天皇退位があった。徳川将軍家天皇による任命があって初めて成り立つ体制であり、要求が通らないなら譲位すると迫ることは、政権に対する大きな牽制となる。もっと歴史を遡るなら、天皇天皇を退位した上皇との間で紛争(内乱)になったこともあった。だからこそ、天皇の退位は「崩御された時(亡くなった時)」として、人の意思の介在の余地をなくしたのである。

したがって、ご高齢の陛下を慮ってご公務のご負担を減らすべく、お気持ちを伺った上で譲位を可能にするというような流動性・柔軟性のあるかたちでの譲位は許されてはならないことである。かつて皇族の一部から意見が出て物議を醸したことがあるが、「定年制の導入」であれば、人の意思が介在する余地はない。また、一世一元制の元号についても、「いつ変わるのか」が明らかであれば産業界としても混乱は生じないであろう。皇族から出た意見だから物議を醸したのであって、「定年制」自体は論議に値する提案と思う。

現在の陛下の人柄や人格に依る制度設計は禁物である。不敬を承知で言えば、美濃部達吉が提唱していたような「天皇機関説」は、天皇に人性や人権を認めず、制度機関として扱ったところに抵抗感を感じる人も多いが、天皇を国家の象徴とし、人性を奪っているのは、現行憲法でも同様である。憲法の第1章に天皇が来て、その後(第3章)に国民主権が示されることから、定義の段階からして天皇は国民の枠組みから外れているのである。そして、その主権者たる国民による立法(第4章国会)、その立法に基づいて行動する行政(第5章内閣)、その行為が法に違反していないかチェックする司法(第6章裁判所)の順で定められていることは、きわめて論理的なのである。

したがって、「陛下のお気持ち」を勘案することは、恣意的な退位を可能にする道を開くことにも繋がり、そもそもそうした発言自体が皇室典範などの法律改正を要求していることになり、政治的にはきわめて大きな問題となる。これは「君臨すれども統治せず」という立憲君主制の根幹に関わる。皇室が安泰に末永く続くためにも、政治的闘争から離れた地位にいることが必須である。ケース対応による感情的な議論は廃し、理性的に対応しなければならない。もちろん、その理性的対応の動機は感情的なものでかまわない。

だから、「陛下のお気持ち」ではなく、国民一人一人が主権者として法制度を主体的に定めていこうとしなければならない。陛下が年齢や体力的に大丈夫だと主張しても、体を労ってごゆっくりとお過ごしくださいというような制度設計をするべきであろう。象徴として存在している以上、制度として存在している以上、そこには生物としての人間性は考慮されていない。健康問題や年齢問題は考慮されていないのである。

昭和天皇崩御される直前まで、宝算87歳まで現役の天皇で国事行為に当たられたことは、国民として、その国家統合の象徴に対する態度・姿勢がどうなのかと自問するべき内容に思う。今上陛下も82歳になられた。今回のスクープをきっかけにしたとしても、国民が自らの問題としてきちんと敬意を持って、象徴としての勤めを長年果たされてきた陛下に対し、考えなければならない問題であろう。当然、皇位継承についても、生まれによって自動的に継承順位が定まるような、つまり、政争の具とならないような設計が必要であろう。

蛇足ではあるが、皇太子殿下ならびに同妃殿下が頼りないというような論調をたびたびネット上で見かけるが、今上天皇がご即位された時にも、同様の論調があったことを付記しておきたい。先帝は馴染みもあり、偉大でもあるのだ。だから、このような論調は感傷的なものであり、考慮に値しないと思う。

東京都知事選告示前

7月11日、エネルギー閣外相のアンドレア・レッドサム女史が保守党党首選を辞退したため、テリーザ・メイ内相が保守党の党首となることが決まった。これを受け、キャメロン首相は7月13日に首相を辞任し、同日、メイが首相に就任する。英国には議会での首相指名がないから、バッキンガム宮殿でエリザベス女王が現職の首相の辞任を受理すると同時に次期首相の推薦(庶民院で過半数の支持を得られる人を推薦する慣習)を受け、次期首相候補を宮殿に招いて首相に任命することになる。9月9日まで結果が持ち越されず、このような結果になったのは、レッドサム女史の舌禍に拠る。あっけない幕引きであった。サッチャー女史以来、26年ぶりの女性首相の誕生である。

さて、彼の国のリーダー選びが一段落したところで、僕の住む東京都ではリーダー選びが本格化することになる。まだ告示前ではあるが、宇都宮健児氏、小池百合子氏、増田寛也氏、鳥越俊太郎氏などの名前が挙がっている。他にも候補表明をしている人もいるが、僕が気になる人のみを取り上げた。宇都宮健児氏は100万票を持つ男と呼ばれているが、その再挑戦となる。

保守分裂選挙となる増田氏と小池氏であるが、僕はここが一番気になっている。というのも、両者ともにイメージが先行しているように感じているからだ。

小池氏は細川護煕氏の日本新党から政治生活をスタートし、日本新党解党とともに新進党に移籍して小沢氏の側近となり、新進党解党とともに小沢氏の自由党に移籍して小渕内閣森内閣政務次官を務める。その後は小沢氏と決別して保守党に参加し、さらには保守党を離脱して保守クラブに入り、自民党に入党し、小泉政権で小泉氏の側近として環境大臣に、第一次安倍内閣防衛大臣に就任した。現在は安倍氏との仲も悪い。

政治家としては「コウモリ政治家」で権力者のそばに寄っていく印象がある。しかし、これの意味するところは非常にしたたかでしぶといということで、政治家としての面の皮の厚さがあるとともに、自らの政策を通す手段として権力者に寄り添ってきたとも言える。都知事選挙の公約を見ても、もっともはっきりと政策が見えやすいと思う。劇場型の政治家として、見せ方や構図の設定、戦略の立て方が非常に上手だと思う。

一方の増田氏は、「896の自治体が消滅する」というフレーズで名をあげた「増田レポート」で有名な人である。元岩手県知事、元総務大臣である。しかし、県知事時代には知事外交を盛んにしたが、県内主要港湾からの輸出額がゼロの年もあり問題視された。また、公共事業を漫然と拡大し赤字を招き、就任前の7000億円から12年間で1兆4000億円にまで赤字を拡大させている。知事後半では職員のリストラを敢行し、公共事業を縮小するなど赤字対策へ奔走はした。また、2011年10月、日韓グリッド接続構想を提唱し、韓国との電力融通構想を推し進めた。

総務大臣として地方分権を推し進め、東京一極集中を悪として地方への拡散を主張してきた人でもある。財政の潤沢な東京都の知事になった場合、財政赤字によって縮小へを余儀なくされた公共事業は、東京でなら際限なく行われるのか、あるいは東京から地方へという流れを主張してきた過去の経緯を考えた場合、東京の発展はどうなるのか、このあたりは不鮮明である。一度、政治資金でトラブルもしたことがあるが、地方自治地方自治体についてはプロである。

野党統一候補として鳥越俊太郎氏が出馬表明したが、民進党都議連は元経済産業省官僚の古賀茂明氏を一度は擁立したわけで、保守分裂に加えて野党分裂となるかどうかも焦点である。いづれにせよ、4度のガン手術を経験した鳥越俊太郎氏には、76才という年齢も考えれば健康不安がつきまとうし、古賀氏は過去のテレビにおける頑迷さは大人の対応としてどうかと疑問に思った記憶がある。

まだ告示まで時間があるから、マスコミで流される情報やイメージだけでなく、各候補についてWikipediaなどでしっかりと調べていく必要があるだろう。この投稿が読者の調べるきっかけとなれば幸いである。

英保守党の党首選

退院からおよそ2週間が過ぎた。最初の1週間は自宅で安静にしつつ、毎日、散歩に出かけた。9日間の入院生活だったが、思ったよりも体力が低下していた。散歩から帰宅したら、いつの間にか昼寝というのが日課になっていた。そして、今週から仕事に復帰し、滞っていた仕事をこなし始めた。昨日までは起き上がれなかったものが今日はすんなりと起き上がれるようになり、歩くと響いていたものが小走りでもなんともなくなり、日に日に回復していく人間の体のすごさを実感した。しかし、ブログは停滞していました。こちらにも復帰していきたいと思います。

さて、英国のEU離脱問題が取り沙汰されていますが、キャメロン首相が辞意を表明し、離脱交渉は次期首相に任せるとしたことから、英保守党はにわかに党首選挙へと進みました。離脱派のジョンソン前ロンドン市長が盟友ゴブ司法相の裏切りを受けて不出馬となり、そのゴブ司法相も「裏切り」のイメージから党首選から脱落し、現在、テリーザ・メイ内相とアンドレア・レッドソム・エネルギー担当閣外相という、女性候補2人の決選投票一騎打ちとなった。

どちらの候補が勝利を収めるにせよ、サッチャー元首相に次いで2人目の女性首相となる。僕の学究生活のスタートがサッチャー研究であったことからも、僕は興味を持ちつつ、今、この情勢に注意を払っている。とはいえ、日本ではあまり有名でない2人なので、今回は少し紹介をしたい。

テリーザ・メイ内相は、今のところ、優勢にある。中流階級出身で、父は牧師、自立心が人一倍強い子供であったという。生い立ちと性格的にはサッチャー元首相に非常によく似ている。警察の予算削減については、大勢の警官と面と立ち向かって妥協しないタフさを持っている。政界に入る前はイングランド銀行で働き、経済については詳しい。気難しいが優秀と評判であるが、この気難しさは信念の表れとも言える。「氷の女王」というニックネームがある。

EU離脱投票においては残留派であった。同性婚法案には賛成を投じている。英国内にいるEU移民が今後も英国内に留まれるかどうかは今後の交渉次第としている。そして、最低賃金と産休手当の完全保証を掲げている。

一方のアンドレア・レッドソム・エネルギー担当閣外相は、中央政界での歴史は浅く、6年前に議員生活をスタートさせている。新米議員であることを自覚し、優秀な人材を広く求めている。オズボーン財務相の庇護を受けて政界で活躍してきたが、EU離脱投票においてはオズボーン財務相と対立して離脱派になった。

すでに英国内にいるEU移民は今後も英国内に留まるべきと主張している。中小企業における最低賃金や産休制度は支持していない。同性婚法案への投票は棄権している。

この2人の決選投票は、9月9日である。ドイツのメルケル、合衆国のクリントン、そして英国の首相と、主要国のリーダーに女性が増えていきますねぇ(クリントンは時期尚早でしょうか)。一方で、この保守党党首選を巡るゴタゴタや米大統領選、EUのゴタゴタを見ていると、世界各地で政治家が小粒化しているように感じます。もちろん、先進民主主義国が内向き、劇場化していることが背景にありますが、これはまた投稿を改めて述べたいと思います。

Brexit(ブレグジット)問題

ここ数日、英国のEU離脱を巡る国民投票結果が話題に上っている。実は投票日当日の前後、僕は入院していたので、けっこうリアルタイムで膨大な情報にアクセスできていた。まずは情報をまとめてみよう。

もともとの不満は、「移民」に対するものである。しかし、この「移民」は少し前に話題となったシリアなどからの「難民」とは違う。同じEU加盟国から流れてくる「移民」である。この「移民」が問題となるのは、EUの理念と関係してくる。

EUの前身は欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)である。いわゆるシューマン宣言によって、戦争で用いられる兵器の製造に欠かせない2つの素材、石炭と鉄鋼に関する産業を統合することを目的とした共同体が設立されたのがきっかけである。やがて、石炭と鉄鋼に限らず、エネルギーでの協力体制(欧州原子力共同体)、関税同盟(欧州経済共同体)が設立され、この3つをもって欧州共同体(EC)となる。そして1993年、政治的統合も目指して欧州連合(EU)が設立された。二度の世界大戦を経て、戦争のない国際社会を作ろうという地域での試みであった。

この設立経緯が重要なのであるが、関税同盟から政治的統合に進む過程で、英国は欧州から一歩引いたところに居続けた。それは、Euroという統一通貨制度に参加しないという形でもっとも顕著に表れている。英国にとってはEC参加はあくまでも経済ないし貿易のための政策であって、EUという主権委譲を伴う政治的統合には常に警戒感を露わにしてきた。そして、EUは経済と貿易の観点から「ヒト・モノ・カネ」の移動を自由にした。

EU域内での「ヒト・モノ・カネ」の移動が自由になったことは経済的貿易的には効果大とするところであるが、同時に、EU域内での貧しい国から豊かな国への人口移動が起きた。また、英国は社会保障の手厚い国であるから人気は高く、ドイツと同様に「移民」の目指す先となった。しかし、その社会保障は税金で賄われる。それは直接的に英国民への税負担となって現れてくるし、仕事をより安い賃金で働く「移民」に奪われるし、本来使われるべき場所に税金が投入されずに「移民受け入れ費用」に税金が投入されるという状況を生み出した。

だから、国民投票の結果、イングランド離脱派が、スコットランドなどで残留派が主流となった結果には、一定の理由が存在すると見ることができる。ロンドンを抱えるイングランドでは、日常でそうした「不満」を肌身で感じることが多かったのであろう。比較的「被害」の小さかった地域で残留派が多かったのである。また、「移民」を得ることで利益を上げた資本家やエスタブリッシュメント(上層階級)はイングランドにおいても、もちろん残留派である。

また、報道に拠ると、英国の国民性も追い風になったとされている。これは大英帝国として世界に君臨した英国が、ブリュッセル(EU本部)の民主的ではない機構によって支配されることを是としなかったという理屈である。「国会が北京にあり、最高裁判所がソウルにあるとしたら、日本人は耐えられるか?」というのは、とある報道での英国人の喩え話である。

結果が判明するやいなや、国民投票のやり直し要求や後悔の話が伝わってくるようになった。また、英国のインターネット検索では、投票後に「離脱したらどうなる?」「離脱 影響」といった検索語が上位になっているという。離脱したらどうなるかを知らずに反対票を投じて、「あぁ、そんな大変なことになるのか!」と嘆いているという。これは、国民投票では近視眼的で感情的な結果が出たということである。目の前の「嫌なこと」にNOと叫んだだけで、「こんなことになるとは…」というところなのだろう。

国民投票に法的拘束力はないものの、主権者たる国民意思の直接表明は重い。議会制民主主義の発祥地が、直接民主主義の挑戦を受けている。直接民主主義が間接民主主義を補完するとの趣旨から、日本でも住民投票が注目を浴びるようになってきているが、今回の事例では直接民主主義のマイナス面が表に出た。今回の事例を英国がどう裁くのか、英国を中心に比較政治学を学んできた身としては、非常に高い関心を寄せている。

18歳選挙権をどう見るか

 6月19日に改正選挙法が施行されて、今夏の参議院選挙より18歳選挙権が実施される運びである。これをめぐって、テレビや新聞などで議論が交わされている。施行されてから何をいまさらとも思ったが、実際に18才、19才の新有権者に投票に行くかどうかと問い掛ける形のものが大半であった。この意味では、実感を伴ったところでアンケートしているのだから、意味はあるだろう。

 そうしたアンケートの中で、投票に行かないと答えた新有権者の心配事はおよそ次のようなものである。彼らの政治的判断が未熟であること、政党や候補者の公約や人柄を知らないこと、政治的争点や懸案についてよく分からないことを中心に、自らが投票にふさわしい能力を備えているか否かについての心配である。だから、テレビなどの特集では、付随的に高校での取り組みというものに話題が移っていく。そこでは社会科教師が四苦八苦しながらも試行錯誤した優秀な有権者教育が行なわれていた。

 そして、スタジオでは、賛否両論を携えた大人たちがあれこれと言っている。これに違和感を覚える。僕自身は不惑の40歳を迎えたものの、今もなお自身の未熟を痛切に感じているから、自分の政治的判断が正しいのか、間違いなく出来ているのか、と常に怯えている。あるいは政党や立候補者についてきちんと調べたのかと言われれば、過去の選挙において胸を張れるほどに取り組んだことは一度しかない。投票にふさわしい能力を備えているか否かという問い掛けをされたら、僕は今回の高校生以上の答えを持ち合わせていない。

 こんな条件を出されてクリアできる人は、おそらく、ほとんどいない。安保政策や消費増税などのときの街頭インタビューを思い出せば、今回の新有権者たちにひけをとらないほど未熟で、知っていなくて、印象だけでものを言っている人が多いことに気付くだろう。20歳で成熟して18歳は未熟でというふうな視点から見ている限り、議論は意味のないものになる。線引きを18でするのか20でするのかに大義はない。30だろうが60だろうが政治的には未熟な人が多いという現実がある。これは当たり前の話である。皆が皆、政治家ではなく、実際には政治の素人なのだから。それが民主主義というものである。

 だから、有権者というものを「投票にふさわしい能力を持つ人」というような資格的な捉え方をしてはならないのである。18歳が未熟だから選挙権を与えてはならないというのなら、同じ理屈で痴呆症や認知症の老人からも選挙権を取り上げなければならないが、実際にはそんなことにはなっていない。それは痴呆症や認知症の人々の意見を代理人を通して表明してもらおうとしているからだ。つまり、18歳選挙権は、日本という社会が彼ら若年層を必要とした結果なのだ。少子高齢化による社会バランスの悪化を防ぐために、若年層の割合を少しでも増やしていこうとする策なのだ。この日本社会の要請に若者は存念を伝えるだけで、充分に有権者なのである。

伝統と革新の混在

アメリカは世界的にも先進国で、奴隷制度の廃止、民族自決原理、女性の権利の保護など、多くの政策を実行してきたことで知られる。女性に開かれた社会、女性の社会進出、女性の管理職の誕生など、フェミニズムさかんなお国柄である。

先日、民主党の大統領候補ヒラリー・クリントン女史に決まった。マスコミは女性初のアメリカ大統領の誕生かと取り上げているが、そもそも国のトップを巡る事情においては、アメリカは後進国である。女性大統領が話題になること自体、遅れていると言わざるを得ない。1974年のイサベル・ペロン大統領(アルゼンチン)を始め、今年5月に就任した蔡英文総統(台湾)に至るまで、女性指導者は世界にたくさん存在している。中華人民共和国にもいたというのは驚きである(宋慶齢女史)。

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いずれにせよ、女性大統領の誕生がニュースになるようではフェミニズム後進国である。少なくとも、アメリカを見よ、アメリカを模範とせよといった論調での女性管理職の数値化義務や女性の社会参画を謳うことはやめてほしい。そうした行為が正当で正しいのであれば、誰かがしているからとか、あちらの国ではどうだとかいう理屈ではなく、自立した理屈を持ってきてほしいと思う次第である。諸外国ではどうだからという理屈は小学生の理屈である。お母さんから「よそはよそ。うちはうち」と叱られてしまうのがオチである。

一方で、晩婚化や少子化を憂いているのも、滑稽なことではある。晩婚化や少子化は「昔と比べて」遅くなった、少なくなったということであり、女性が社会進出した現在、それは付帯的に当たり前の現象ではないかと思うからである。一方で働けと言い、一方で家庭に入れという。まともな頭を持っていれば混乱しか引き起こさないであろう。だから今、保育所施設や託児所施設の不足が社会問題になっている。働いて家から出ていても子供を産み育てる環境があれば両立できるからという理屈だ。

これは一見すると理に適っているように思う。また、核家族になる前は祖父母が子供の面倒を見ていただろうから、保育所や託児所が不足するのは、まさに20世紀後半と21世紀前半の社会問題である。子育ては家庭の私的問題から社会の公的問題へと変貌した。しかしながら、子どもは実の親と過ごし、育てられるべきと僕は思っているので、保育所や託児所が施設として充足してきても、そこに「家族」という従来型の集団は存在しえるのだろうかと危惧してしまう。

高齢者の方に目を転じても同じことが言える。老々介護や独居老人が社会問題となるのもまた、核家族社会がさらに進んだ結果である。昔なら祖父母の面倒は家族問題である。介護保険を導入するなど、こちらも今は公的問題になっている。

つまり、家族制度や年金制度、育児や高齢者に関する制度など、従来までの諸制度が崩壊してきているのは、意識をも含めた、そこに住む人々のライフ・スタイルが変化してきたからに他ならない。しかし、現状は過渡期にあり、古いものと新しいものとが混在し、どうしていいのか分からない状況にある。従来通りのやり方で行くものと、新しいやり方で行くものとが混在し、混沌としている。こうした時代には社会不安が付きまとう。最近のさまざま報道される事件の、もっとも目に見えにくい本質的な背景は、実はこんなところにあるのだろうと思う。

だから、社会ではなく個人の力を、自らの力を信じようという動きが広がりつつある。自己修養や自己啓発、身近な人とのつながりに関する書籍が溢れているのも、その一つの証左であろう。