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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

自己研鑽の必要な理由

教育論考

誠実さというものには、人を信じるという前提が伴う。そして、疑心暗鬼や自暴自棄、被害妄想に駆られがちな弱い人間にとって、この「人を信じる」という行為は非常に難しいものである。

性分として人を信じられない人がいる。そのような人たちは平気で人を裏切るとの判断が下されがちだが、それは、その人における親からの愛情不足や友達からの愛情不足という過去の経緯に拠るところが多いと思う。たとえそれが片思いや一方的な思いであっても、傲慢にも思い通りにならないと感じた経験も含まれる。そう極端にならずとも、大なり小なり、過去の愛情不足に端を発していることが多い。そういう環境で生き抜いてくるために、自己防御のために方便として人を裏切ることが常態化してしまったような場合もあるだろう。極端でなくとも、人は誰しも、人間不信に陥るときは、過去のそうしたマイナスな記憶が呼び起こされている。

そして、人を信じられない人は、自分という人をも信じていないようになる。他者からの愛情を満足に受けられなかったのは、自分が悪い、自分にその価値がない、自分に何かしらの原因があったのだと思うからである。その結果、自己嫌悪の念を生じ、それは自己不信や自己否定にも繋がっていく。とすれば、自分を裏切ったり、自分を傷つけてきた相手も、こういう境遇に置かれた『弱い人間』の一人なのである。なにも相手が特別なわけではない。普通に、人は弱いのだ。

捨て猫や人間に酷い目に遭わされた動物は、人間を見ると牙をむいて威嚇する。手を出せば噛みついてくる。それでも、怖くないことを伝え、噛まれてもニコリと笑う余裕が出てくれば、噛まれた方は人間不信には陥らない。何度噛まれても、次は噛まれないと信じて手を出していく勇気が必要である。これは難しいことのようで難しくない。

なぜなら、精神状況が安定している時、自分自身の基盤がしっかりしている時、誰もが普通にこなしていることだからだ。難しくて出来ない時は、自分自身も弱っている時なのである。相手が先ほどの弱った子猫相手なら、自分の優位や基盤がしっかりしているから、手を出せるのである。逆に、猫嫌いの人にとっては、甘噛みですらトラウマである。自分というものがしっかりしているかどうかが問題になる。だから、人に裏切られて人間不信になるとき、人は同時にアイデンティティの崩壊やら自己嫌悪やら、いろいろな思いが混濁した状態になるのである。

としたら、問題は自分自身をしっかりとさせて寛容な慈愛精神を育むことが、自分にとっても相手にとってもよいことになる。そのためには、自分を傷つけてきた相手や自己嫌悪の対象になっている自分を客観的に見つめる必要がある。自分の被害ばかりを見つめるのは客観性に欠けている状態である。客観性を可能とするのは、経験値や読書である。いろいろな経緯や考え方があることを知れば知るほど、物事を客観視できるようになる。逆らってきた相手、自分を傷つけてきた相手はもとより、自分自身をも客観視できるようになる。

自分の心が揺らいでいる時に自分自身を取り戻すために、拠り所となるものが必要である。それは尊敬する理想の人物でもいいし、本でもいいし、映画でもいい。拠り所となる生き方や考え方、小説や映画を1つ見つけてみると、展望が明るくなったように思えるし、自己の原点を持つこと(意識できること)は心の安定に繋がる。心の安定は心の余裕であり、トラブルや人間関係などを乗り越えていくためには必須のものである。余裕があれば下手は打たない。まずいことをしてしまうときは、余裕のないときである。

だから、自己研鑽が必要なのである。さまざまな生き方や考え方に触れ、自らに投射して改善し、突然の出来事にも客観性を発揮して心の余裕を維持できる心の状態を作っていくこと。これが自己研鑽である。誰かの評価を得るために、または出世していくために自己研鑽をするのではない。自分が自分自身の人生を歩んでいくために、自己研鑽をするのである。