学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

第4次産業革命の世界とは何か

昨年から、人工知能(AI)とかIoTとか自動運転車とか仮想通貨とかフィンテックとかを耳にする機会が増えた。こうした変化は、第4次産業革命と呼ばれている。簡単に歴史をおさらいしておくと、第1次産業革命は18世紀末以降の蒸気機関ないし水力による機械化であり、第2次産業革命は20世紀初頭の電力と分業による大量生産化であり、そして第3次産業革命は、1970年以降のコンピュータを用いたオートメーション化である。そして21世紀初頭、AIとIoTによる第4次産業革命が始まった。

産業革命とは、動力(エネルギー)や、それによる機械化を通して、人間の労働を省くものである。そして、それは人間の働き方を変え、ひいては社会構造に変化をもたらす。オクスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授とカール・ベネディクト・フレイ博士のチームが現状の仕事の半分近くが消滅するとの予想を出したが、第1次産業革命のときに「機械打ちこわし運動(ラッダイト運動)」が起きたように、労働の変化は社会的に大きな衝撃をもたらす。

実際、現金不要な支払いも定着してきつつあり、ICカードのみならず、さらなるテクノロジーの発展によって仮想通貨なるものも登場して、現実の一部店舗では仮想通貨による支払いもできるようになってきた。Google Homeに代表されるようなIoTの機器も、やがて実現する人間型ロボット(アンドロイド)の登場を予感させてくれる。過去の事例からして、新技術はものすごいスピードで発展し、急速に普及していくだろうと思われる。

そして、だからこそ、哲学や、哲学に繋がるような深い思考なるものも、同時に注目を浴びてくるのである。それは、そうした優秀な機械の登場が、人間とは何か、人間らしさとは何かという問題を鋭く突き付けてくるからに他ならない。機械が人間に取って代っていく場面が増えれば増えるほど、このことは同時に機械にはできないこと、人間にしかできないことが何かを明白に要求してくるはずである。

いわゆる本質論である。これまでの常識が非常識に変容し、予測不能な変化が日々起こるようになってくるであろう。そのときに対応できるものは、実は自分の頭で考えられることであり、変容や変化の本質を見抜き、対応していく能力である。本屋に新しい経済学や経済事象に関する解説本があふれ、思考法や深い思考を促す書籍があふれているのも、実はこうした時代の要請があってのことである。

時代の変化に取り残されないように最新技術についていくことも必要なことだが、それだけではなく、人間としての本質を見、あるいはその質を高めていかなければならないだろう。これが第4次産業革命の世界に生きる者の宿命と思う。

ハレの日は戻らず

振り袖販売・レンタル業「はれのひ」(横浜市)が突然休業し、成人式に晴れ着を着られない新成人が続出した事件をめぐる一連の報道に接し、いろいろと日本文化が表出しているなぁと感じた。本文を始める前に、まず被害者の皆さんにお見舞い申し上げます。

さて、まず店名の由来と思われる言葉は、「ハレの日」である。「ハレ」に対応する言葉は「ケ」である。これは、民俗学者柳田國男(明治8年~昭和37年)が日本文化に昔から存在してきた意識として提唱したものだ。「ハレ」は、神社の祭礼や寺院の法会、正月・節句・お盆といった年中行事、初宮参り・七五三・冠婚葬祭といった人生儀礼など、非日常的な行事が行われる時間や空間で、これ以外の普通の時を「ケ」という。

ちなみに、のちに文化人類学者の波平恵美子(昭和17年~)たちのグループが、ハレとケのいずれとも対立する「ケガレ」という概念を加えた(神道でいう「穢れ」とは多少ニュアンスが異なる)。波平は「ハレ⇔ケ⇔ケガレ⇔ハレ」と相互間が対立概念であると主張したが、同じグループの桜井徳太郎(大正6年~平成19年)は、「ハレ⇒ケ⇒ケガレ⇒ハレ」という循環論を主張した。

現在では、「ケ」と「ケガレ」は区別がややなくなった感があるが、「ハレ」は「晴れの舞台」や「晴れの日」、「晴れ着」といったように生き残っている。日本人が成人式という人生儀礼を「晴れの日」と捉え、特別な思いを抱いていることは明らかだろう。

しかるに、横浜市が被害者を中心に成人式を再度行なうことを検討しているというニュースが流れた。ここで僕は違和感を覚えた。着物を着ることがしたいわけではないだろう。「成人の日」という非日常空間で着ることに意味があるわけで、親戚同級生の集まる「この時この瞬間」でなければ意味を失うからである。被害者のみを集めてやり直したところで、本末転倒ではなかろうかと思うからである。そこにマスコミが殺到したら、被害者晒しであり、傷口を広げることになりはしまいか。

もちろん、その人生儀礼は人生で一度限りのもので、これを台無しにした業者は責任を取り切れるものではないし、その被害者へ向けての横浜市をはじめとした周囲の温かい気持ちも感じられる。「せめて」という気持ちなのだろう。しかし、である。「ケの日」に「ハレの日」は、日本人の意識としてできないであろうと思う。祝日という日本全体の空間の中でやること、特別なハレを作り出したところでやらなければならないのだ。

ところで、話は変わるが、成人が18歳に引き下げられることになり、今年、民法など関連法が25前後変更される。選挙年齢は既に変更されているが、関連する法律は今年中に改定される予定である。さて、来年から成人式を18歳にするならば、19歳の子たちはどこでハレの日に接することになるのだろうか。「特別な日」をきちんと履行することこそ、大切なことである。

謹賀新年

あけましておめでとうございます。

平成30年(2018年)が幕を開けました。当ブログも半年ぶりの更新となります。ご無沙汰しておりました。いろいろと思うところもあり、また本業での佳境を迎え、ブログから遠ざかっていたことをまずはお詫びします。

さて、年も改まったところで、僕の関心事を述べておきたいと思います。今、勉強したいことは、人口減少問題、仮想通貨、定常的停滞経済の3つです。

世界史的に人類史上かつてない人口減少問題に直面している日本は、視点を変えれば世界に先駆けて社会縮小への処方箋を提示できる「先進国」となり得るわけで、この現象をどう受け止めるか、大きな関心事です。もちろん、人口減少問題は社会のあらゆるところに影響を及ぼすでしょう。

僕の関わる大学関連でも、私立大学(599校)・短期大学(331校)を運営する学校法人(660法人)のうち、今年に閉校すると言われている経営難校が21校、来年以降の近いうちに破綻すると言われているところが91校、このまま行けば閉校の可能性のあるところが175校である。これは大学の存する地域にも大きな影響を及ぼすでしょう。このことは大学に限ったことではなく、あらゆる商売が顧客を失うことも意味している。こうしたことが目に見えてくる年になりそうです。

また、アダム=スミス以来の経済学の視座転換が起きそうな予感もしています。中央銀行という信用の源をもたない仮想通貨がどれだけ通貨足りえるのかについて、従来の経済学では説明が付かないであろう。現行の通貨も政府によるコントロールが効かない昨今、もっとコントロール不可になる仮想通貨は、我々の生活をどのように変えていくのか。その仮想通貨が席巻する舞台は、高度経済成長どころか経済成長すら怪しくなった定常的停滞経済状態にある。

昨年中頃から僕は価値観のパラダイム・シフトが起きると周辺に漏らしてきている。AIやIoTが支配する未来社会において、人間が人間らしく人間たることが求められるであろう。先進技術に取って代わられることのない人間とは何かが今以上に問われることになるだろう。英オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授の指摘を待つまでもなく、先進技術によって仕事が消えていくのは、革新技術が登場するたびに起きてきたことである。

しかし、AIやIoTの登場は、作業労力の軽減ではなく、人間の擬似的存在の創出を意味する。だからこそ、疑似でない人間本来の姿とは何かが問題になってくるのである。具体的な内容はまだ漠然としていて見えてきていないが、ここは価値観に関わる部分であろうと予測している。価値観とは、ものごとを判断する基準である。これはAIやIoTにはできまい。

ところが、翻ってみるに、この価値観について、少なくとも日本人は明治から大正の創成期を過ぎて以降、まともに取り組んでこなかったように思う。現代日本人にとっては苦手分野、存命の先人のいない分野となろう。最近の書店で思考ないし思考法に関する書籍があふれ、明治維新150周年を記念したNHK大河ドラマの「西郷どん」に関する書籍も、当時の価値観に関わるものが多数出版されている。

僕自身、この分野に関するインプットが足りない。価値観を育て、後進に道を示せるよう、精進を積んでいきたいと思う。これを年頭の挨拶として、今年の初投稿を終える。

民意という至高の声

都議会議員選挙が終わってから、マスコミ報道でチラホラとお決まりのような遣り取りを耳にする。番組を変えても局を変えても同じだから、少し異様なものも感じる。次の遣り取りを耳にしていないだろうか?

 

マスコミ「小池チルドレンが誕生し、議会(立法府)による知事行政(行政府)の監視が果たして出来るのか?」

小池都知事「二元代表制として機能する。さまざまなバックグランドを持った方々なので、私にしっかりと意見をしてくれると思う。そもそも、そういうことを聞いてくるなら、かつてはどうだったのかという話ですよ。きちんと監視できていたなら、今の都の行政はなかったのでは?」

 

ざっくりと要約すると、こんなかんじだ。都民ファーストの会が地滑り的勝利を収め、小池さんの独裁が始まるという批判である。こうした質問に僕は耳障りなものを感じずにはいられない。

小泉チルドレンに始まるいわゆる「政治の素人」が大量発生したことを懸念する声は以前からあるが、そもそも民主主義とは「政治の素人」による政治である。民主主義とは、王族や貴族などの生まれながらにして政治に携わってきた、いわばプロによる政治ではない。一定の条件を満たした国民であれば誰でも立候補できるというシステムは、言い換えるまでもなく、「政治の素人」による政治なのだ。

この意味で、政治家は弁護士でも医者でも主婦でもフリーターでも芸人でも、誰もが政治家になろうと志せるシステムなのだ。唯一の関門は選挙である。選挙を通して国民なり住民が承認をすればいいだけのものだ。その「素人」たちは理想の政治について語ればよい。その理想が荒唐無稽だと国民なり住民なりが判断すれば落選するし、当選したとしても、その理想の実現が出来なかった場合には次の選挙で落選するだけの話である。

「素人」だから当然に政策能力はない。政策は能力試験を受けて合格してきた官僚が担うものである。官僚は政治家の手足となって、政治家の指し示す方向に向かって、その理想が実現するように邁進するべきもので、党派的中立は担保されなくてはならない。自らの信条と異なるからといって、政策立案に手抜きをするようでは困る。

政治家は理想を語って選挙で選ばれ、官僚は試験によって選ばれる。それぞれの役割に合った選出方法が用いられているのだ。

さて、話を今回の都議会選挙に戻すが、都民ファーストの会小池都知事の言いなりになっていてもかまわないのではないか。むしろ、それこそが都民の民意なのではないかと思う。マスコミがこぞって質問するように、都民も都民ファーストの会小池都知事の思いのままだということは百も承知で、小池都知事にフリーハンドを与え、彼女の思う都政を議会に邪魔(チェック)されることなく実現して欲しいとの民意だろうと思う。

語弊を承知で敢えて書くが、知事選とは異なり、有権者はさほど都議会議員の素性については知らないであろうと思う。自民党民進党から移籍してきたステルス議員がいても、それを意に介さずに彼らを当選させたのは、その人物いかんではなく、小池都知事都民ファーストの会所属だからという理由であろう。都民は小池都知事の独裁によるスムーズな都政を望んだのである。

今回の都議選の結果について、国政云々という話も聞くが、上述したように都政がスムーズに行くように小池都知事を支持したという構図なので、僕は国政にはほとんど影響がないと思う。大阪維新の会大阪府・市内では勢力を誇っても、国政ではそうでなかったのと同様、都民ファーストの会は都内での話である。大阪における強権発動は大阪をなんとかして欲しいという府民の委託であり、国政をという話ではなかった。橋下氏にも小池女史にも、府民や都民は国政を彼らにどうこうできるとは期待していなかったのだ。

批判者は、二元代表制の地方政治において、その両者ともに1人の手に委ねられたのが制度の趣旨からして歪んでいると言いたいのだろうが、そもそも両者ともに1人の手に委ねられるシステムなのだから、迅速にマツリゴトを運んでもらいたいときに取り得る「通常の手段」である。その民意がおかしいと批判する人は、たいていは自らをエリートと認識して愚民思想を持って大衆を馬鹿にする非民主主義的な人であると思う。にもかかわらず、こういう人が小池都知事を独裁者だのファシストだの非民主的だのと批判する。支離滅裂な分裂症である。お気の毒に。

豊田真由子議員の騒動

「お前、頭がオカシイよ!」

「支持者を怒らせるな!」

「このハゲー!」

「ちーがーうーだろ!」

「生きてる価値ないだろ」

 

この一週間、テレビから流れに流れ続けた豊田真由子衆議院議員の暴言。暴言に加えて暴行までしていたという。文部科学大臣政務官まで勤めた元官僚の、あまりにも品のない言動だが、昨今の国会議員のレベル低下もあってか、あまり驚かなかった。むしろ「またか」という不祥事議員の再来へ呆れた。

この騒動を通して、僕は2つのことを感じた。

1つめは、地位と自分自身との混同が著しいということだ。これはなにも国会議員に限ったことではないが、地位の高さが自分自身という人格の高さと勘違いする人が多いなぁということだ。地位の高さはその職分や職能に拠るものであって、その地位にある人の高さを意味しないということが分かっていない。組織は統率と責任の所在という必要性から地位の上下が存在するが、人としての上下は存在しない。

つまり、ひとたび地位を離れれば「等しい人格を持った人」でしかない。会社の社長は社外ではただの人であり、社外の人に対して社長として振る舞うことは適切ではない。会社の中で秘書や部下に何かやってもらっている立場であっても、個人として店を訪れればただの客である。そこで踏ん反り返っていても通用しない。

地位とその人の高さが一致していたのは、身分制社会の頃である。身分制社会にあっては地位の高さとその人の身分の高さは一致していた。それは家柄によって就ける職位が決まっていた時代の話であって、現在は身分は皆平等なのである。ここを勘違いして、地位の高さを己の身分の高さと混同してしまう幼稚さが問題なのである。

就いている地位の重い職分を果たしているところから、その人個人への尊敬が生まれることはあるだろう。しかし、それは周囲からの自然発生的なものであり、当該人物が自分という個人への尊敬を要求できるたぐいのものではない。むしろ、地位がなくてもその人格に尊敬を受けるような生き方をしてこそ、貴人であると言えるだろう。地位は後から付いてくる程度のほうがよい。

2つめは、これが男性議員であったならどうだったかということだ。もし仮に男性議員が「このブスー!」とやっていたら、騒動はこれで済んでいたようには感じられない。野党もマスコミも、もっとかしましくやっていたのではなかろうか。1つにはこれほど再生された音声がテレビから流れ出ることはなかったように思う。米イージス艦事故が起きればイージス艦沈没シーンを含む映画の放映を自粛するような過敏さを示す一方で、「このハゲーッ!」は何度も何度も流れた。

男女平等を常日頃叫ぶ人ほど、静かであるようにも感じる。ヒステリーを発症して、それが報道されるや体調不良で入院する議員に対する追求も弱い。これが男性議員なら押しかけて詰め寄って説明責任を果たせとか、自民党幹部への直撃をしていただろうと憶測をしてしまうのは、僕だけであろうか。女性議員だからこの程度で済んでいるという「性差別」を、この騒動から感じてしまうのである。

男女平等で女性の社会進出・参画をいうのであれば、こうした不祥事の際にも性差別は出すべきではない。仮に女性ゆえに追求が緩くなっているのだとしたら、それこそ男性への逆差別であり、フェミニストは女性が軽んじられているとして豊田議員を徹底追求していくべきとの声を上げるべきだろう。権利を主張するときだけ声高に叫び、義務を果たすべき(今回の例では説明責任や謝罪会見)ときにはトーンを落とすのであれば、その人こそ女性蔑視・女性差別主義者である。

一貫性を持つということは人からの信頼を得る一番の誠実な道であるが、身内や自分自身にも等しく価値基準を適用できなければ、綺麗事を言うだけの人になる。他者を批判するときには、その批判が自分自身や親しい人に向けられても同じ発言を出来るかと自問する必要があるだろう。他者批判をするときには、自分自身へ向けられたときにも同じように自分自身を批判する精神を持ち合わせなければならない。そして、それを考えたときに他者を批判できず、ズルズルと許していくようでは、尊敬は得られない。難しいことだ。

本質的モノの見方

少し前から政府が「働き方改革」を推進している。日本人は「エコノミック・アニマル」だと海外から揶揄され、働きバチに喩えられてきた過去からすると、社会風潮の移り変わりを感じずにはいられない。僕が少年だった頃の常識はどんどんと覆っていく。「亭主元気で留守がいい」と言われた時代、ほんの20年前との隔絶感は大きい。

働くことが美徳とされ、生活保護は皆様のご迷惑になることと避けられてきた過去の風潮からすると、現在の風潮は真逆である。「働いたら負け」と言われ、「生活保護貴族」なる物言いまで耳にするようになった。確かに、働いて精神を病み、社会生活からリタイアするようになるのでは、働くことは美徳とはなるまい。個人の精神衛生を最優先に図ることは、個体として正解である。

そして、ここにきて政府から「休み方改革」なるものが出てきた。同じことの視点の転換である。働き方を改革するとしてライフ・ワーク・バランスを推進してきたわけだが、このライフの部分をとりわけ抜き出して対策しようというものである。その目玉が有給休暇取得の奨励と、それへの企業助成金である。一方で、「キッズ・ウィーク」なる大型連休を導入して、有給休暇の使い方にまで口を挟もうとしている。

現代行政国家(社会福祉国家)はどこまで肥大するのか、どこまで国民のプライベートに口を出そうとしてくるのか、僕自身はとても警戒してしまうのだが、今回の政府の対応策は根本的に間違えているように思う。休みの有り様にまで国家に口を挟まれるのかという忸怩たる思いがある。

現状のままに有休を取らせたところで、今度は企業が疲弊していくだろう。働き方を時間を物差しにして変えさせ、有休を取らせて強制的に休暇を取らせたところで、事態は悪化するだけである。たとえば、10時間で10の仕事量をしている人の働き方を時間で測って7時間にしたら、消化される仕事量は7である。溢れ出た3は、どこにいくのだろうか。人手不足に加えて企業体力のない今のご時世では、他の人に回すこともできないだろう。かくて、企業は没落していく。もちろん、残業が減って手取りが減った労働者に休暇で使う資金などない。企業も人も雁字搦めである。

働き方改革ないし休み方改革などというものは、質的変化を伴うものでなければ意味がない。10時間かかって10の仕事量をしていたものが、7時間で10の仕事量をこなすようにしていくことこそが改革の本丸ではなかろうか。効率を上げ、生産性を高め、そして浮いた時間で遊べばいい。生産性が今のままで働く時間を減らしたら、企業収益は悪化し、労働者の手取りが減ることは必定である。人手を増やしたら、逆に人件費で企業が赤字になる。

つまり、政府のやるべきことは、仕事で実際の役に立つ生産性や効率性の向上のための支援ではなかろうか。働き方改革・休み方改革に割いている人的資源と予算を、たとえばAI(人工知能)の開発に回したり、そうした機械導入のコストに対する企業への助成金に回したりするべきではなかろうか。企業は生産活動をするものであり、利潤を追求し、それを増大させていく使命を持つ。この資本主義における根本を無視して、上辺だけの改革に何の意味があろうか。「プレミアム・フライデー」なるものの虚しい響き、定着の無さも、実は同根である。「そうはいっても、現実は…」という国民の声がある。

労働者に充実した資金があれば、放っておいてもそれぞれ勝手に遊びだす(というよりも、そんなところにまで政府に介入されたくない)。そのためには企業がガンガン儲けていなければならない。そのためには、生産性の向上や効率性の向上に努めなくてはならない。ここにこそ政府の援助があってしかるべきである。それを、有休を何日以上取りなさい、取ったらご褒美を上げる、休日はお出掛けしなさい、そうすれば子どもも休めるようにしてあげるなどという指導をしているから、国がダメになる。目先のことしか考えていない。

今の政策を受け入れていたら、10年後、20年後の日本経済は破滅的になっているだろう。止められないグローバル化の前に、国際競争力も落ちぶれていくばかりであろう。100万円を稼ぐのに従来の10時間必要だったものを5時間で済むようにしていかなければ働き方改革の意味はない。そこで10時間働かせて200万円にしていくのに歯止めをかけ、5時間で100万円を稼いだら、10時間働いていた時と同じ収入を5時間の労働に対して支払うというような改革でなければ意味がないのだ。

とはいうものの、政府に当ブログのような場所で批判をして叫んでいても通じない。だからこそ、個々人でできること、つまりは自己研鑽や能力開発を通して、政府に振り回されずに自分の手の届く範囲で対策を練っていく必要がある。自分の手の届く範囲とは、自分自身のことである。どんな環境になっても困らぬように、あるいは予想される環境に適応していけるように、モノの見方を鍛えて本質的対策をしていかなければならないと思う。

 

再生が求められるとき

先の5月21日の投稿(「論理と人情」)の中で、「ご退位検討をめぐる有識者会議での発言に陛下がショックを受け、不満を示された」との毎日新聞報道が宮内庁によって否定された。そのような事実は全くないということだった。

僕は前回の記事を書いた段階で、陛下が政治的発言をすること自体に反発を覚え、陛下のお気持ちを忖度せず、やや冷たく引き離して投稿記事を書いた。陛下のご退位表明においても違和感を覚えたが、それで今回はより政治色を増したのだろうかとの危惧からである。陛下の政治発言を受容することは、一見すると人権への配慮であるが、それは同時に陛下に政治的責任を伴うということであり、慎重になるべき事案である。

現在、皇室は日本政府(行政府)に大政を移管しているのであり、皇室に関する制度についてとはいえ、憲法皇室典範という法律についての政治介入を許すということは、部分的にではあれ、平成の大政奉還となる。これは現行制度を著しく変えるものであり、蟻の一穴になると僕は思う。だからこそ、強く否定されるべきで、この強い否定こそが皇室を存続させる道だと思っている。

とはいえ、「捏造報道」(こう表現することが不適切なら「フェイク・ニュース」となろうか)に振り回され、事実に基づかない記事による判断を下してしまったことは、素直に反省しなければならない。正直、今回の宮内庁の全面否定によって、ホッと安心し、安易な発言をするような人ではなかった。やはり陛下は深いお考えの人であったと安堵した次第である。

民主主義は情報へのアクセスが必須である。しかし、行政府が拡大し、専門分化した現在にあっては、1人1人の個人の力では調査にも分析にも限界がある。だからこそ、大衆民主主義の発達はマスメディアの発達は不可分・不可欠の要素である。国家権力に対抗し、主権者たる国民の権力を支えるという意味で、国の公式な制度には含まれないものの、第三の権力としての役割がマスメディアにはある(第一に国民、第二に国家機関である)。

にもかかわらず、国内を問わず、「フェイク・ニュース」という表現が政治家や国民の中にも浸透してきたことは、民主主義にとって憂慮すべき事態である。政治家が使用している限りは政治的な意図があるのだろうが、国民にも訴求力があって受け入れられているのだとすれば、これはかなりの程度、多くの国民が過去にフェイク・ニュースに接し、実感を持って受け入れられるものだという証左である。

かつてアクトン卿が「権力は腐敗する」とのテーゼを出したが、長い時を経て第三の権力としてのマスメディアもまた腐敗してきたのではないだろうか。今、書店では民主主義の危機を指摘する書物が相次いでいるが、国民の権力もまた腐敗しているという自覚の上に立ち、国民も国家機関もマスメディアも襟を正すべき時が来ているのかもしれない。