学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

言葉を語る職業

「政治家」を英訳するとき、気をつけねばならないことがある。それは、politician と statesman の2つの英単語があるからだ。言葉が複数ある以上、これらには必ず相違がある。ということで、まずは辞書にあたってみよう。
 
[politician]
A politician is a person whose job is in politics, especially a member of parliament or congress. (COBUILD)
 
[statesman]
A statesman is an important and experienced politician, especially one who is widely known and respected. (COBUILD)
 
ということなので、politician とは、「政界でその職を持つ人。特に国会や議会の議員」を指し、statesman とは、「有力で経験豊かな politician。特に広く知られ、尊敬を集めている politician 」を指す。すなわち、statesman とは、politician の中に含まれる狭義の「政治家」であり、かつ、良いイメージを伴うものだということが分かる。しかし、僕の経験の中で付け加えるならば、人々の政治談議の中に登場する時、politician は「政治屋」というような軽蔑的意味合いで使用されることが圧倒的である。「政治屋」とは、「地位や立場を利用し、自らの利害に重きを置いて行動する政治家を軽蔑していう語」(コトバンク)であり、つまりは政局に左右され、自らの当落にのみ関心ある政治家のことだ(先に引用したCOBUILDの2つの言葉に付されている例文でも、マイナスイメージの politician と、プラスイメージの statesman が明らかである)。
 
昨今の野党のありさま、とりわけ東京都議選をめぐる一連の離党騒動などを見ていると、野党にいるのは「政治屋」ばかりではないかと頭を抱えてしまう。現在の政党に属していると再選が危ういので、沈む泥船から急いで降りて、小池都知事に寄り添う姿などは、見ていても気分の良いものではない。目を国政に転じても、安倍政権崩壊のみに汲々とし、とにかく何が何でも自民党を政権から引き摺り下ろそうと難癖をつけているようにしか見えない。手段の目的化である。自らの政権を打ち立てるために倒閣するはずが、倒閣することが目的と化し、その後の政権構想を描けないでいる。有権者もそれは感じている。だからこそ、支持率が伸びないのだろう。

政治家は夢を語る職業であると僕は思う。ビジョンを掲げるのが仕事だ。それを現実化していくのは官僚の仕事である。政治家が進む先を示し、それに官僚が現実的方策を考えていく。だからこそ、官僚は不偏不党の立場にあって、かつ、実務に優れた有能なエリートでなければならない。同じ公務員でも、政治家が選挙で選ばれ、官僚が試験で選ばれるという根拠がここにある。政治家が他の職業よりも「失言」に厳格さを求められ、ついには「失言」によって職を辞さなければならない理由もここにある。政治家は言葉を語る専門家なのだ。

ひるがえって、尊敬を得る政治家のことは statesman というのであるが、この言葉の成り立ちにも注目してもらいたい。state は「述べる」・「(公式に)明言する」という動詞である。いわば「述べる人」が statesman である。言葉で信を得、未来を語ることで尊敬を得るような「政治家」が待望されている。

表世界と裏世界

久方ぶりの更新である。言い訳にしか過ぎないが、年度の終わりと始めは目を回すような忙しさで、ブログ執筆を怠けていた。この間、各方面から何人か書くように促されたが、今日の今日まで延ばし続けてしまった。

さて、今回のテーマであるが、森友学園問題を巡って旬の言葉となった「忖度(そんたく)」である。これはマイナスの言葉としてニュースなどで語られているが、ここに違和感を覚える。「忖度」というのは、コトバンクによれば「他人の心を推し量ること」である。国会の与野党の議論で、国有地売買において官僚の「忖度」があったのか、なかったのか、日々報道された。籠池泰典理事長も記者会見で連発し、この言葉は外国人特派員たちを大いに混乱させた。なんとも外国語に翻訳しづらい言葉であり、ということは日本文化に深く根付いた概念だということである。

そもそも、日本社会において「忖度」することは当たり前の日常である。言い換えれば、「空気を読むこと」であり、「おもいやり」の心を持つということである。オリムピックを巡って「おもてなし」という言葉が注目を浴びたが、これもやはり外国語に翻訳されることに馴染まず、「Omotenashi」となった。「Mottainai(もったいない)」と同様である。

同じ「相手の気持ちを推し量ること」なのに、「忖度」は悪いことに、「空気を読む」ことや「思いやりの心を持つ」ことは良いことになってしまった感がある。はっきりと言葉に直して直截に気持ちを伝えることをよしとせず、相手の気持ちを忖度して円滑にコミュニケーションをしようという日本人の美徳を表す言葉が汚されてしまったように感じる。

もちろん、公正と公平を旨とする役人がこれをしてよいのかという問題は別である。民間では「忖度」「心付け」は当然のように行なわれる人間関係の潤滑油である。役人には禁止されている「お中元」や「お歳暮」などの季節の挨拶も、民間では当たり前であるが、西洋から取り入れた役人システム、すなわち合理的で効率的なシステムにおいては、言語と同様、馴染まないものなのである。ある意味で、伝統的な日本社会とは隔離された世界である。

こういう「異世界」の産物を同じ土俵に出して表沙汰にしてもケリはつかないであろう。なぜなら、推し量る対象の「気持ち」も、推し量ろうとした主体の「気持ち」も、内面的なものであり、証明という西洋合理システムの論理の中では説明のつかないものであるからだ。それを国会の中で時間を費やしても、国会に論理性が欠けていることの証明にしかならないであろう。

日本文化に根ざした伝統社会のものと、近代西洋の合理的価値判断との折衷した世界に生きている我々であるが、こうした質的違いは意識していかなければならないだろう。でなければ、不毛な議論にくたびれ果ててしまうことになる。そして、伝統的社会は陰に追いやられ、西洋近代システムが闊歩しているのが現状である。

ここに、いわゆる「表」と「裏」がある。そして、表世界の論理が西洋合理システムである以上、裏世界は表世界に出たらアウトになる。それでも、裏に追いやられている世界観は、日常生活に深く根付いた文化なのである。このことに自覚的でありたいと思う。

ポスト・ヒューマンについて

つい先日、インターネットを利用して、アメリカ合衆国から商品を購入してしまったが、これは決してトランプ大統領への協力ではない。Buy Americanでアメリカ合衆国の富創出の枝葉に参加してしまったが、この商品を注文したのは就任演説以前である。こう言い訳をしながら、今日の投稿を始めたい。

新春特別企画4回シリーズの最終回は、「ポスト・ヒューマン」についてである。前回までと同じ要領で、「ポスト」は「~の後」という意味なので、今回は「ヒューマン」についての話から始める。

「ヒューマン」とは言うまでもなく、「人間」である。「人間後」とはいかなることであろうか。これを予感させるニュースが昨年は目白押しだったように思う。いわゆる「AI関連ニュース」である。

僕が子供のころ、アンドロイド(人型ロボット)はまさに空想科学であった。映画「スターウォーズ」のC-3POR2-D2は夢の世界の話であった。しかし、ソフトバンクのペッパー君を見ていると、そう遠くない未来のように感じられてくる。複数のAIを組み合わせたロボットによる喫茶店実験(慶應大学の矢上キャンパス)や、自動車の自動運転、スマートフォン搭載の音声認識、法務や医療における提案など、昨年はAIが現実化してくる様を見せつけられた。

2014年夏に英オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授が、AIに取って代られて消えていく職業をまとめたとき、正直、実感を得なかった。まだまだ先の未来だと感じていたのだ。それが2016年には具体的な姿をもって実物が登場した。技術の開発スピードは日進月歩だから、実用化まではあっという間だろう。2020年のオリンピック・パラリンピックには、スマートフォンに搭載する通訳ソフトが登場する見込みであり、こうなってくると、AIの音声認識はほぼ問題ないレベルになっているであろう。2020年まであと3年である。

さて、こうなってくると、「人間」はどうしたらよいのだろうか。

古代ギリシャのように、奴隷に働かせて日常の用を足し、市民は有閑階級として政治や学術、芸術に勤しんでいたように、AIに日常の用をさせて人間は有閑階級になるというような世界が実現するのであろうか。あるいは、マルクスの夢想を増幅させたような、人々が労働から解放される真の意味での共産主義が実現してくるのであろうか。それとも、映画「マトリックス」のように人工知能に支配された人間が登場してくるのであろうか。

どのような未来が訪れるにせよ、ここで「人間とは何か」という命題を突き付けられるであろう。生活の糧を得るという意味でのいわゆる生産活動から解放され、「働かざるもの食うべからず」を根底から覆すような世界が立ち現れた時、われわれ人間の「生きる」とはなにかという問いが表れてくる。昨年より哲学書が書店の店頭を賑わせているが、そうした気配を感じているのだろう。哲学書が一般書のように書店に溢れていること自体が本来は異常なのだ。

人類史上初の問い、これまでの前提を根底から覆した先にある問いを考えていきたい。当ブログの問題意識である。

第1回から今回まで、ポスト・モダン、ポスト・ナショナル、ポスト・グーテンベルク、ポスト・ヒューマンという当ブログの問題意識を4つのテーマから迫ってきた。これらはすべてブログの副題に付けられているものであるが、これらはすべて「視座」である。これらの視座をもって、学際的、すなわち学問領域を超えて輻輳的に考察をして、視座から見えてくる地平を広げていきたい。それが「学際知の地平」である。

ポスト・グーテンベルクについて

新春特別企画4回シリーズの第3回目は、「ポスト・グーテンベルク」についてである。前回までと同じ要領で、「ポスト」は「~の後」という意味なので、今回は「グーテンベルク」についての話から始めたい。

グーテンベルクは、ヨハネス・ゲンズフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルクという長い名前のドイツ人である。彼が活躍したのは、ルネッサンス期である。ルネッサンスの三大発明と言われる「火薬・羅針盤活版印刷」のうちの活版印刷を開発した人物である。彼以前には本は手書き写しか木版使用であったが、活版印刷の発明により、大量生産を可能とし、生産者にとっても読者にとっても、経済的に成り立つものとなったのである。

新春特別企画4回シリーズの初回と第2回では、「近代国家」の誕生・発展を前提としていた。我々の住むこの世界は、「近代」の発明によるものである。モダン(近代)とナショナル(国家)の話は、思想と制度である。そうした「近代国家」が生まれるためには、「国民」の存在が不可欠であるが、ここでいう「国民」は理性と知性を兼ね備えていなければならない。そうでなければ「国家」の支配者として主権者たり得ないからである。この「教育」を可能にしたものこそ、身近に本があるということである。活版印刷は機内国家に生きる啓蒙された国民を生み出したのである。

ところが、少し前から「活字離れ」が話題に上るようになった。新聞の購読数は、日本新聞協会(社)によれば、1997年の4726万部から2016年の3982万部へと、およそ10年間で744万部も減少している。他にも、総務省のデータに拠れば、書籍、月刊誌、週刊誌、コミックなども1990年代後半から軒並み発行数が減少している。一見すると、数字の上でも裏付けられているようにも見えるが、活版印刷に拠るような「紙の本」が減少したに過ぎない。

このブログの読者もそうであるが、ネット上の「活字」に親しむようになってきたのである。ネット上の「活字」はなかなか勘定できないが、電子書籍の場合には少しデータに当たれる。2010年に電子書籍の売り上げが650億円だったものが、2015年には1584億円にまで増えている。2020年には3000億円に成長するとの試算もある。一方、紙の書籍の売り上げは2015年度で1兆5220億円あるが、1996年のピーク時に2兆6563億円だったことから考えれば、ずいぶんな落ち込みようである。

つまり、「ポスト・グーテンベルク」とはインターネットや電子書籍のことである。「ポスト~」の後ろの部分が比較的明確である。活版印刷に代わる新しい技術が登場しているが、それらをひとまとめにして表現することはまだ難しい。グーテンベルクの技術が世の中を変えたように、インターネットという技術は世の中を変えつつある。それがどのようにどこまで何を変えるのかは未だ発展途上であり、不明確な部分も多い。

活版印刷は本や新聞、雑誌など、大衆を一つの方向に向かせることを呼び起こした。インターネットの存在は、個々の人々に多種多様な方向を向かせるのに貢献している。こうした変化が今後、どのようになっていくのか。こうした問いを胸に起きつつ、社会を見ていきたいと願っている。これが当ブログの第三の柱である。

ポスト・ナショナルについて

新春特別企画4回シリーズの第2回目は、「ポスト・ナショナル」についてである。第1回目と同じ要領で、「ポスト」は「~の後」という意味なので、今回は「ナショナル」についての話から始めよう。「ナショナル」とは「国家の」とか「国民の」という意味の形容詞であるが、まずはこの名詞形である「ネイション」から話を進めていくことにしよう。

「ネイション」は多義的で、主なものに主体としての「国家」、集合体としての「国民」、統合体としての「民族」の意味がある。

21世紀は「国家」としての「ネイション」が瓦解あるいは融解の方向へと向かったと言われている。それはEUやEPAに代表されるような「国境」の希薄化に看て取れる。また、グローバリズムの進展・深化からヒトの移動が自由化され、「国民」の集合体は崩れつつあった。当然、「民族」としての純潔性も失われ、混血が多く生まれた時代でもあった。

このような状況を受けて、近代から営々と築き上げられてきた「ネイション」の姿が薄くなるにつれて次の時代が期待されるも、それに変わる明白な「新しい姿」が見えてこなかった。フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」と表現したように、「ネイション」を築く積極的な努力が消え去り、そのまま今がなんとなくずるずると続いていくかのように思われた。この消極的な状況を「ネイションの後」=「ポスト・ネイション(ナショナル)」と指すようになった。

ところが、現在の我々はそうではないことに気がつきつつある。EUは英国の離脱を受けて存続が危うくなり、欧州は移民問題に揺れ、アメリカ大統領選やフィリピンなどを始めとして「ナショナル」な傾向が強まり、日本でも移民問題に敏感になり、戦後に封印されてきた「日本という国柄」を表立って主張できる空気が醸成されている。つまり、再び「ネイション」が台頭してきつつあるのだ。

とはいえ、まったく同じではない。グローバリズムの深化は経済も人種も混ぜてしまった。「国際派」ないし「国際人」、「国際的」と言われている間は、「国」の色は強かった。「際」は「接するところ」という意味であり、「際」の両側ははっきりと区別できた。「水際」と言えば、陸地と水面には明確な区別がある。同じように「国際」の場合には接する国同士が「全くの別物」とする了解があったのである。それが「グローバル(地球)」となれば、その内部での境界線は非常に曖昧である。そうした混交を経てきた現在、国民や民族において「純正」は存在し得ない。

唯一、純正ができるとすれば、それは「国家」という人工物であろう。「国家」は制度でありシステムである。だから、今後、「国家」をめぐる議論が活発化してくるだろうと思っている。それは、国境紛争という形でも現れてくるであろうし、そもそも「国家」とはなにかという議論を呼ぶであろう。そして、これに伴って「国家」の構成要素たる「国民」の再定義が可能となる。そうすると、「国家」と「国民」の関係にも変化が見られてくるであろう。

今上陛下のご退位の後に元号が必要なのか否かという議論も、日本がかつてと違ってグローバル化の洗礼を受けて純正を失っているからであり、年金問題移民問題、働き方改革にしても、「国家」と「国民」との関係性に言及してくるはずである。こうして新しく成立してくる「国家」を「ネイション」と呼ぶのかどうかで、「ポスト・ナショナル」の世界が見えてくると思う。本ブログはこうした前提に立っている。

ポスト・モダンについて

新春特別企画4回シリーズとして、当ブログの時代の捉え方について、第1回目は「ポスト・モダン」について扱う。実はこの「ポスト・モダン」は言葉としてよく耳にするものの、各論者の文脈によってさまざまに定義され、これと明確な姿を描けない。実に曖昧な概念をブログの設定に含んでいるのであるが、この理由を以下に追っていこう。

「ポスト」というのは、「~の後」という意味の接頭語である。つまり、「ポスト・モダン」というのは「モダンの後」という意味なので、まずは「モダン(近代)」とは何かという問題から出発しよう。ざっくりと言ってしまえば、リオタールの言を借りれば「大きな物語」が存在した時代がモダン(近代)である。たとえば、冷戦を代表とするような、あるイデオロギーによって成り立つ世界観のことである。

もう少し具体的に言えば、自立的な理性的主体という理念を持ち、道具的理性による世界の抽象的な客体化を通して、整合的で網羅的な体系性を構築した世界観である。体系的な全体像を得るためには、「中心・周縁」や「資本家・労働者」といった一面的な階層化を行なったり、等質的で還元主義的な要素を発見したりした。近代思想とは、こうした合理的で階層的な思考の態度を基底に持つ思想である。これはすっきりとしていて、物事を理解するのに非常に便利である。

ある意味で、高度に画一化された世界である。日本でも、最初はアパートに住み、カローラ(大衆車)を持つようになり、出世すると共にマンション・一戸建てを所有し、やがてはクラウン(高級車)を持つというような一連の「定型」が示されていた。「末は博士か大臣か」との言葉は、子供の将来を願って出世の最高峰という意味で、才能の一端を示した子供への賛辞であった。博士か大臣になれば、人生は安泰という「道」が存在していた。また、大量生産・大量消費という資本主義のシステムは、合理的な理性を持つ人々の間の整合的な網羅的な体系を持つ世界観の構築を大いに助けた。

このような皆を包摂する「大きな物語」が崩壊した時代が「ポスト・モダン」である。ポス・ドクといわれる博士出身者が路頭に迷い、大臣ないし大臣経験者が素人のようにも扱われる今にあっては、もはや「定型たる道」は存在しない。こうした崩壊を受けても、ポスト・モダンそのものは、モダンへの批判という形であるため、「~ではない」という主張であって、「~である」という肯定的な思想たり得ない。「~ではない」のならば何なのかという問いには答えていないのが「ポスト・モダン」の最大の特徴である。だから、モダン(近代)の一つ一つの側面について批判的に否定していく堆積物としての思想にならざるを得ず、体系性を失い、多様性が跋扈するようになったのである。構造主義的思想が物事を構造的に分解し、その端緒を批判していったが、これは「大きな物語」の解体作業であったと言えよう。

現象としては、出世してお金持ちになってもアパートに住み続ける一方で、車は高級外国車を乗り回したり、そもそも車を所有しなくなったりという「大きな物語」からの逸脱が見られるようになったのである。いわゆる「若者の~離れ」という現象は、モダン(近代)を生きた大人たちによる「定型」の通用しない価値観を持つ若者への戸惑いである。大人になれば「新聞を購読し」、「酒を飲み」、休日は「ゴルフをし」、正月には「里帰りをし」、盆には「墓参りをする」というような定型が崩れてきているのである。そういうことをせずに過ごしても自由じゃないかという発想であり、それを尊重しようという多様性の許容である。

こうした画一性や統一性といった体系の存在しない世界、つまりは多様性の存在する混沌とした世界が当ブログの設定する時代背景である。いろいろな事象が階層性を否定して対等に並立し、複雑系の世界の住民たる我々にとって、近代理性では把握しきれない混沌とした世界にあっては、理性よりも感情的になるほうが自然である。理性が世の中を集約できないならば、信頼に足るものは自らの内より湧き出でる感情のほうが確かなものであり、信じられるからである。

ポピュリズムを始めとした現象が2016年に取り沙汰されたが、これも大局的には「ポスト・モダン」現象なのである。とはいえ、「モダン」は潰えたものではない。現在は「モダン」と「ポスト・モダン」の混交であり、「モダン」は滅び去ってはいない。前述したように、「ポスト・モダン」はこれという主張を持たない世界であり、「モダン」に取って代わる新しい何かを構築したものではないし、「ポスト・モダン」においては「モダン」もまた許容されるべき多様性の中の一つとして、残っているからである。

取って代わるべき新しい何かがないからこそ、思考を進めるためには理性を活用し、世界を理路整然と体系化していこうとする試みが必要であり、その中から「新しい何か」が発見されるであろうと思う。「ポスト・モダン」の否定的な批判を参考にして、肯定的に構築していこうとするもがき、あがきこそが役立つであろうとの視点から、当ブログを執筆している。もっとも、これ自体がそもそも「モダン」という古い世界観から逸脱できていない証左ではあるが、過去をよく知らぬものに未来は描けない。原稿をよく読まなければ加筆修正もままならないのである。

あけましておめでとうございます

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

当ブログは世の中のいろいろな出来事をポスト・モダン、ポスト・ナショナル、ポスト・グーテンベルク、そしてポスト・ヒューマンな視点から時代を考えるというものをコンセプトにがんばっております。2016年はAIの話題があちらこちらから聞こえ始め、ポスト・ヒューマンも眼前に現れてきたなぁと感じております。

ところで、NHK紅白歌合戦を見ていて、司会でも歌手でも「まともにやってくれ!」と思いながら、YouTube視聴に変えました。昔のものや、歌手らしい歌手、つまりは歌を売り物にできるだけの歌手の映像を楽しみました。最近のテレビ番組からは、エンターテイメント性といいますか、プロの意地というものが消え去り、「NHKのど自慢」のような素人参加番組に成り下がったような気がします。

かつて、ビートたけしさんが「お笑い芸人は人を笑わせる人であって、人から笑われる人のことではない」というような主旨の発言をされていましたが、ここで指摘されているように、「人を笑わせる」というエンターテイメント性が希薄なんですよね。視聴者を置き去り、出演者が楽しんでいるだけなんです。視聴率を取るためだと思いますが、「正解を見てみましょう!」と言ってCMに突入したりすることは、きわめて姑息なやり方で、視聴者のことを見ていないやり方でしょうね。

これを我が身に当てはめれば、自分が言いたいことを相手の主張を押しのけて通そうとしていないか、聞いた相手はそれをどのように感じるであろうかと配慮する姿勢に繋がると思います。もちろん、これは「プロ」ではない日常の一コマなのですが、しかし、こうした配慮はコミュニケーションを成立させる上で必須でしょう。なにを伝えようとしているかよりも、その言い方、表情、伝え方でなにが伝わっているかを一考しなければならないと思います。

今年の投稿は、このブログのテーマについて、つまり、ポスト・モダン、ポスト・ナショナル、ポスト・グーテンベルク、そしてポスト・ヒューマンについて、それぞれ最新の状況を押さえながら記事を一つずつ掲載していこうと計画しています。12月の記事投稿はサボってしまったので、その反省を込めて、新年はテーマを決めて取り組んでいこうと思います。

読者の皆様、今年もどうぞよろしくお願いします。

 

追伸

記事が良いと思えば、リアル友達にアドレスを紹介するなど、読者の輪を広げていただきたく、よろしくお願いします。