学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

ポスト・ナショナルについて

新春特別企画4回シリーズの第2回目は、「ポスト・ナショナル」についてである。第1回目と同じ要領で、「ポスト」は「~の後」という意味なので、今回は「ナショナル」についての話から始めよう。「ナショナル」とは「国家の」とか「国民の」という意味の形容詞であるが、まずはこの名詞形である「ネイション」から話を進めていくことにしよう。

「ネイション」は多義的で、主なものに主体としての「国家」、集合体としての「国民」、統合体としての「民族」の意味がある。

21世紀は「国家」としての「ネイション」が瓦解あるいは融解の方向へと向かったと言われている。それはEUやEPAに代表されるような「国境」の希薄化に看て取れる。また、グローバリズムの進展・深化からヒトの移動が自由化され、「国民」の集合体は崩れつつあった。当然、「民族」としての純潔性も失われ、混血が多く生まれた時代でもあった。

このような状況を受けて、近代から営々と築き上げられてきた「ネイション」の姿が薄くなるにつれて次の時代が期待されるも、それに変わる明白な「新しい姿」が見えてこなかった。フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」と表現したように、「ネイション」を築く積極的な努力が消え去り、そのまま今がなんとなくずるずると続いていくかのように思われた。この消極的な状況を「ネイションの後」=「ポスト・ネイション(ナショナル)」と指すようになった。

ところが、現在の我々はそうではないことに気がつきつつある。EUは英国の離脱を受けて存続が危うくなり、欧州は移民問題に揺れ、アメリカ大統領選やフィリピンなどを始めとして「ナショナル」な傾向が強まり、日本でも移民問題に敏感になり、戦後に封印されてきた「日本という国柄」を表立って主張できる空気が醸成されている。つまり、再び「ネイション」が台頭してきつつあるのだ。

とはいえ、まったく同じではない。グローバリズムの深化は経済も人種も混ぜてしまった。「国際派」ないし「国際人」、「国際的」と言われている間は、「国」の色は強かった。「際」は「接するところ」という意味であり、「際」の両側ははっきりと区別できた。「水際」と言えば、陸地と水面には明確な区別がある。同じように「国際」の場合には接する国同士が「全くの別物」とする了解があったのである。それが「グローバル(地球)」となれば、その内部での境界線は非常に曖昧である。そうした混交を経てきた現在、国民や民族において「純正」は存在し得ない。

唯一、純正ができるとすれば、それは「国家」という人工物であろう。「国家」は制度でありシステムである。だから、今後、「国家」をめぐる議論が活発化してくるだろうと思っている。それは、国境紛争という形でも現れてくるであろうし、そもそも「国家」とはなにかという議論を呼ぶであろう。そして、これに伴って「国家」の構成要素たる「国民」の再定義が可能となる。そうすると、「国家」と「国民」の関係にも変化が見られてくるであろう。

今上陛下のご退位の後に元号が必要なのか否かという議論も、日本がかつてと違ってグローバル化の洗礼を受けて純正を失っているからであり、年金問題移民問題、働き方改革にしても、「国家」と「国民」との関係性に言及してくるはずである。こうして新しく成立してくる「国家」を「ネイション」と呼ぶのかどうかで、「ポスト・ナショナル」の世界が見えてくると思う。本ブログはこうした前提に立っている。