学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

長谷川慶太郎について

長谷川慶太郎と言えば、1980年代から1990年代前半までのオピニオンリーダーだったと思う。彼の広い人脈と精力的な行動に裏打ちされた取材、その結果としての著作物には、中高大生の僕にとってワクワクさせられるものであった。世界へと目を開き、見知らぬ情報の海へと漕ぎ出す格好の道案内であった。彼の分析は経済に基軸を置きつつ、政治と軍事にまで及ぶもので、近年はこうしたオピニオン・リーダーがいなくなったと淋しく思っていたものだった。

2000年を前に僕が彼の著作物を読まなくなったのは、ITの世界に彼がついてきていないと感じたからであり、冷戦構造などの過去のフレームワークから逃れられないと感じたからであり、竹下首相の懐刀としての役割も東京佐川急便事件(1992年)以降はなくなったと思ったからである。つまりは、考え方や分析が、やや時代遅れのように感じたということである。

しかし、今年89歳になる長谷川氏のここしばらくの著作には再び鋭さが戻ってきたように感じる。それにしても、89歳にして、この頻度の出版活動には恐れ入るとしか言い様がない。しかも、取材活動は往年のそれと比べても遜色がないようだ。とりわけ、中国周辺の分析には感じ入ることが多い。語弊を恐れずに言えば、中国を取り巻く理屈が冷戦構造というか、一昔前の論理だからであろうとも思う。中国の「戦勝国である」という意識や、経済活動の興隆が領土の拡張に向かう意識、戦勝国かつ経済大国が国際秩序を構築できるのだという発想に繋がる意識が、一昔前の論理なのだ。

あわせて、欧米に中国の専門家がいない。思想文化背景までを古代にまで遡って付き合ってきた日本の風土での理解には、やはり欧米の専門家は及ばないのだ。ドイツやイギリスが中国に擦り寄り、経済協力やAIIB構想に乗ってきているのは、ヨーロッパに中国の専門家がいない証左であると言えるだろう。また、日本で長らく言われてきた「中国経済の崩壊」がなぜなかなか崩壊しないのかについて、長谷川氏ほど説得力のある答えを他からは聞いたことがない。

政治経済軍事にまで及ぶ広い視座から今ここにあることを分析できる専門家が絶えて久しいと思っていたが、89歳の老翁が若い世代の我々を叱咤激励している声が聞こえてくるようである。「すごいなぁ」と圧倒されているだけではダメなのだなぁと自らを奮い立たせられた。氏には遠く及ばないことは百も承知で、それでも追いかけていくことは止むことのないようにしようと決意を新たにしたところである。

中国の変調

2016年8月16日配信の日経記事だが、これを読んで僕は記事にあることとは違うことを感じた。『円高や株安で海外の投資家や富裕層が購入していた「億ション」の動きが鈍っている』とのことだが、本文では台湾人が挙げられているが、これは主に中国人のことであろうと思われる。いわゆる「爆買い」は中国人によるものがメインだったはずである。

2015年11月30日、IMFは中国の通貨「元」を2016年10月からSDR(特別通貨引き出し権)に採用することを決めた。SDRとは、危機に直面したIMF加盟国が仮想の準備通貨であるSDRと引き換えに他の加盟国からドル・ポンド・ユーロ・円という通貨バスケットにある通貨を融通してもらう仕組みであるが、ここにポンドと円を上回る比率で中国の「元」が今年10月から加わることとなった。

SDRの条件として、中国はドルペッグを解消し、さらには通貨の自由性を確保しなければならない。つまり、市場における変動を認めることになる。ドルペッグによって価値を引き上げられていた元がそのリンクを失えば、自由市場における元の価値は実際の価値まで下落することになるだろう。それは大きな下落幅となることは間違いない。

だから、中国の富裕層は海外に資産を持ち出しているのだ。政府の上層部も海外に資産を買う。そうして、中国経済が暴落すれば、海外に移住して不動産を売り払い、そのお金でその後を成り立たせようというのである。だから、家電や雑貨を爆買いする一般的な中国人ではなく、不動産を買っている中国人に注目をすべきなのだ。動産では政府に取り上げられるかもしれず、不動産に投資しているのである。

しかし、なんとしても元をSDRに加えたかった中国政府は、資金流出にストップをかけることが出来ない。ストップをかければ、それはSDR加盟条件である自由取引に待ったをかけることになるからだ。それを知っているからこそ、中国の富裕層や政府上層部は今こそ億ションでもなんでも買い入れてきたのである。中国人の爆買いにも、ちゃんと背景があるのである。庶民の爆買いも同じ路線だが、金額の過多により、より注目するべきものがどちらかは明白であろう。

その爆買いが止まった。中国政府が資産流出に耐えきれず、ストップをかけたと考えられる。10月のSDR適用後を待つことなく、混乱が始まったと見ることも出来る。僕は10月以降に徐々に西側の金融ルールに組み込まれ、資金不足の中国に欧米資本が入り込み、経済支配をするだろうと思っていたが、その前に大混乱が起きるかもしれない。

中国経済バブル崩壊、経済破綻はずいぶんと前から言われ続けてきたが、習近平氏の指導力不足と外交下手とも相まって、いよいよ本格的なカウントダウンに入った感がある。中国市場の行方に要注意・要注目である。

政治への信託

世界における最近の選挙関連を見ていると、政治に対する信託の危機にあると思える。英国におけるEU離脱国民投票や米大統領選のトランプ氏優勢、東京都知事選挙における小池女史の躍進など、既存の支配階級に対する国民の「NO!」は世界的現象のように見える。支配階級たるエスタブリッシュメントへの不信任表明である。

だからこそ、「抗議のための投票と支持」が実現してしまうと、国民の間には動揺が起こる。英国でのEU離脱が決定されてからの国民の狼狽ぶりは、既存の支配階級への不信任ではあるけれど、それでも支配階級による統治のほうがマシと感じている国民の多いことを示した。熱いお灸を据えたつもりが火傷をしてしまったという後悔である。これはおそらく、トランプ米大統領が実現したときにも、アメリカでも同様の反応が起こるだろうと予測できる。

既存の支配階級に満足は出来ないけれども、それに代わりうる選択肢が見つからないのである。だから仕方なしに今の支配階級に支配を委ねるしかない。現今の日本における自民党支持と同じで、自民党に対する積極的支持では決してないのである。これは支配階級が国民の苦境を理解していない、国民の現状を把握し切れていないとの思いからであろう。統治者と被治者との隔絶である。

今、田中角栄に関する書籍が書店に溢れているが、手法は褒められたものではないけれども、国民のことを理解してくれていた政治家への郷愁があるからだと思う。「今は清廉潔白でもないし国民のことも理解していない政治家が増えたので、手詰まりだ」という国民の不満とも受け取れる。民主党政権誕生時の時には、民主党自民党に代わりうる政党として、国民のことを理解してくれているとの期待があったのだろう。それが裏切られた今、国民は希望が持てないでいる。

これは世界的な現象である。伝統的な支配階級が人々の声を吸い上げ切れていない。これが従来の統治構造にも疑問を投げかけている。トルコのクーデターやスコットランドの独立、イタリア・オランダ・スペイン・フランスでの大衆主義をあおる政党の台頭など、近代国家を支えてきた「社会契約」に綻びが生じている証左は枚挙にいとまがない。反グローバリズムとしての内向きなナショナリズム保護貿易、そして抗議のために拡散した支持、そして権力の分散化は、世界的現象である。

近代国民国家が挑戦を受けている。我々が生きる時代は、そうした時代である。20世紀のインフレの時代から21世紀のデフレの時代へ。経済体制だけでなく政治体制にも変革が訪れている。

中国流護送船団方式

戦後の日本の経済体制下では、「護送船団方式」と呼ばれた体制があった。「護送船団方式」とは、軍事戦術の一つで、船団の中で最も速度の遅い船に速度を合わせて、全体が統制を確保しつつ進んでいくことである。戦後、日本の特定の業界において、行政官庁がその許認可権限などを駆使して業界全体をコントロールし、経営体力・競争力に最も欠ける事業者(企業)が落伍することなく存続していけるように図っていた体制を揶揄した表現である。

特に、第二次世界大戦後の日本の金融行政において典型的にみられ、これによって日本の金融機関が「潰れない」という絶大な信用を得たことは確かである。そして、金融業界以外でも様々な業界で行政官庁の強力な行政指導が存在し、これらも「護送船団方式」と表現されることがある。戦後の日本にはあちこちに「護送船団方式」が存在し、体力の弱い復興期の日本経済を守り、牽引してきたと言えよう。

さて、この方式を文字通り、軍事戦術として採用しているのが、現在の尖閣諸島周辺における中国の動きである。200~400隻の「漁船」を仕立て、公船がそれを守るかたちで尖閣諸島沖、日本の領海に侵入してきている。接続水域や排他的経済水域ではない。領海である。これについては、日本は真っ向から厳しく対処すべきである。宥和政策をしてはならない。第二次世界大戦当時、ドイツに対して宥和政策を採り、そのまま済し崩し的にドイツの侵攻を許した轍を踏んではならないと思う。

第一次世界大戦による甚大な被害への反省と恐怖から、ヨーロッパでは「あらゆる戦争に対して無条件に反対する」という平和主義が台頭し、ドイツの主張に対して譲歩に譲歩を重ねた。「宥和」は「抑止」の考え方の対極にある。第二次世界大戦の敗戦経験から極度に「戦争アレルギー」になった戦後日本において、かつてのヨーロッパと同じように、甚大な被害への反省と恐怖から、毅然とした態度に出られないでいるように思う。しかし、その宥和政策の結果、第二次世界大戦という第一次世界大戦を上回る被害と恐怖に繋がった歴史の教訓に学ばなければならないと思う。

相手の主張に一定の尊重を示し、譲歩に譲歩を重ねても、無法者の欲はとどまるところを知らない。いや、欲の無限性は無法者に限らない。人間の性であろう。人間の性であるならば、宥和政策の破綻は目に見えている。「衣食足りて礼節を知る」という中国の言葉が示すとおり、「漁場が豊かだったから」と領海にまで侵入してきた中国には、食が足りていないから礼節は通用すまい。礼節が欠けているなら、話し合いも尊重も必要ない。強制力を用いて排除するしか方策がない。犯罪に対する警察力である。

話は変わるが、在日米軍については知事という職域を超えて訪米までして強行主張をしてきた翁長沖縄県知事が、今回の中国の領海侵入、沖縄県への侵入についてはずいぶんと静かである。沖縄県の漁民にとっては、生活を脅かされる事態に気が気ではないだろう。こうした県民の生活を無視していて、沖縄を守ろうと駐留している米軍基地問題には過敏に反応している。こうした県民・国民と政治家の意識のずれは、大きくは政治への信託という意味で、政治の崩壊へと繋がる。これについては稿を改めることにしよう。

手帳準備

さて、今年9月以降の僕の手帳は、手のひらサイズになりました。半年ほど残っている1日1ページ手帳は引き続き自宅で記録を残していくとして、こちらの手帳は基本的には持ち歩きます。9月以降の秋学期からは講義後にメモを残していけるようになりますし、人と会って話したことや約束事をその場で書き込んでいけるようになります。これは、短くまとめて書いても意味が通じる程度に仕事内容に慣れたらからこそ出来るようになったことです。そうなるまでは1日1ページ手帳に細かく書いていきますね。

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表紙には名前の代わりに家紋を貼りました。最後のページには付箋を4種類用意しています。上の方の緑、青、赤は手帳に書いた内容について、後で見返す必要のあるものや忘れては困ることが書いてあるところに貼ります。色は緑はお仕事、青は自分自身、赤は友達とのことというふうに役割を持たせています。下の大きな黄色は、数週間にわたる作業を書いて、時折、貼る場所を変えていくようになっています。そして、役目を終えたものはどんどんと剥がしていきます。これが爽快ですね。

また、裏に挟める程度の、ミシン目の付いたノートを入れてあります。メモとして相手に渡してしまうこともありますし、ウィークリーで書く場所が足りなくなった場合に書き、上部を糊で貼り付けて増ページとしています。ウィークリーのページには、右下に縮小コピーした書籍の表紙を貼り付け、読書録とか、忘れたくない書物を貼り付けています。そして、表裏の表紙裏には「個人憲法」(7つの習慣)のようなものを貼り付けてあります。

座右の銘とかそういうものは、日常的に目に入る場所に置いておかないと忘れてしまいます。年の初めに思ったことなどは3ヶ月持たないうちに記憶の彼方に消えてしまいます。これでは実現は絶対にしません。ですから、僕は手帳を開くたびに目にするようにしています。ちょっとした書き物風にしておくと、暇な時間に読むことになります、何度も何度も。すると、翌年には別の目標を立てられますよね。

ちなみに、今回、表紙裏に貼った「名言」をご紹介して、今回の投稿を終えよう。これらの言葉は、どこかで出逢って「おっ!」と思ったものを書き留めてきたもので、出典は分からない。ま、自分の手帳に貼る物だし、そこまで正確さを求めてこなかったので、詳細についてはお許しありたい。

 

感情で仕事しちゃいけない。しかし、感情のない仕事はしちゃいけない。

残業自慢・寝てない自慢は、無能自慢。

すべては段取り。

アウトプットが悪いのは、インプットが足りていない証拠。

できなかったことは、面倒くさがったことか、勇気を出さなかったことのどちらかだ。

仕事は「間に合わない」ではなくて、「間に合う中でどうするか」だ。

駄目な奴を動かしてこそ、マネジメント。

二兎を追う者しか二兎を得られない。限界を自分で決めるな。

聞くは一時の恥。聞かぬは問題外。

言われて動くのは「作業」。自分から動けば「仕事」。

「自分は無能」と思うことが成長の始まり。「自分は有能」と思うことが不調の始まり。 

手帳と僕

さて、今日から8月になり、ラインの手帳の話題もチラホラとネットでヒットするようになった。僕は手帳にはかなりこだわりを持っている。手帳にというより、文房具にと言ったほうが正鵠を得ているかもしれない。手帳を含む文房具は僕の生活の中心であり、より良いものを、使いやすいものを、と試行錯誤を重ねている。

話を手帳に戻すと、僕は手帳には2種類を使い回してきている。一つは「1日1ページ」のもの。もう一つは「レフト方式バーティカル」である。

「1日1ページ」は、その名の通り、1日1ページなので、その日の出来事をたっぷりと書くことができる。日記のように書くこともあれば、出掛けた先のチケットを貼り付けることもあれば、読んだ本の表紙画像を貼り付けることもある。友人と話した内容や担当した授業での気付きを書き込むこともある。

こうしたやり方は、なにか新しく始めようとする年や、新たな取り組みなど、不慣れなことがある年に使用してきた。段取りやプロセス、流れが把握できていないうちは、細かなことまで書き込んでいくと、次回に似たような事案が起きても容易に対処しうるし、いつでも「何をしたか」の確認ができるからだ。その日その日の小さなつぶやきが大切になることもある。

もう一つの「レフト式バーティカル」は、手帳を開くと左側にバーティカル(縦に時間軸をとった)週間予定表があり、右側に方眼のメモ用紙が付属しているというタイプのものである。仕事や新プロジェクトに慣れてきたら、予定は左側で一週間分を管理し、右側に主だった情報を記載していく。「1日1ページ」では管理しづらい一週間の流れを把握できる。仕事に慣れるまでは局所的な見方のほうが役立つが、慣れてくると1週間を俯瞰できるほうが都合が良い。

昨年と今年の僕は「EDiT」を活用してきたが、来年は「レフト式バーティカル」にしようかと考えている。しかし、ここから先が悩ましい。この「レフト式バーティカル」はもっとも人気の形式で、多くの手帳が販売されているからだ。どれを選ぶか、大きさ、厚みなど、いろいろと検討しなくてはならない。「1日1ページ」は基本的に自宅に置いておくが、「レフト式バーティカル」は持ち歩くことが基本だ。コンパクトで薄いことがなによりの条件となる。

しかし、それらに加えて、文字が裏抜け・裏写りが問題である。裏抜けしたら次ページが読めないし、裏写りをしたら読みづらい。紙質をよく見定めなければならない。さて、来年はどうしようか。実はこの頭を悩ましている瞬間が楽しい。

電車へGO

さて、世界中で旋風を巻き起こした「ポケモンGO」が日本でも配信され、大きな話題となっている。経済効果や引き籠り外出効果など、プラスの要素がかなり大きな要素として伝えられている。

しかし、世界各国同様、マイナスな要素も発生している。名古屋市で「ながら自転車」でひったくり被害、岐阜市で「歩きスマホ」で高速道路侵入、倉敷市で「ながら自動車運転」で3人逮捕、札幌市で「ながら自転車」同士で衝突、他にも佐賀県兵庫県宮城県で道交法違反で各一人逮捕など、事件・事故が相次いでいる。立ち入り禁止地区や私有地への無断立ち入りなどの犯罪も発生しているという。まだ聞かないが、そのうち、駅ホームでの歩きスマホによる「電車へGO」が発生するかもしれない。

僕は、どこかの外国であったような、崖から落ちて転落死のようなケースは、自己責任で問題をあまり感じないが、道路上を含む公共交通機関等での事故には納得がいかない。たとえば、赤信号で交差点に進入した場合、あるいは道路に飛び出してきた場合、それでも車が100%悪いとなる。常識的には加害者なのに被害者となり、常識的には被害者が加害者となって、最悪のケースでは、自動車運転者の人生が潰える。

幹線道路で順調に時速50キロで走っているところに交差点とはいえ飛び出してきたらブレーキも間に合わないだろう。それでも前方不注意というなら、常に時速20~30キロ前後で走らねばならず、円滑な交通は維持できない。高速道路でも歩行者が侵入してくるかもしれないなどと警戒していたら、高速走行は不可能である。バカバカしい限りだ。「電車へGO」にしても、何百万人の足が乱れることを考えれば、迷惑きわまりない。

個人の自宅が「ポケモンGO」のスポットになっていたり、公園や庭園、お店などがスポットに指定され、元々の利用者が迷惑を被る。個人の自宅はもちろん、利用料金を取る公園・庭園やお店などはゲーム会社を訴えてもいいように思う。了解なく勝手に指定しているのだから。店舗などは、元々の利用者を大切にしないで一時的な目先の利益を狙うなら、去った常連客は戻ってこなくなる。アメリカでは自宅内に侵入した人に発砲をして追い払ったというが、その怒りは理解できる。

他人の被る迷惑を考える、世間の目を気にするといった「社会性」が低下しているのだろう。「社会性」は人間生活の基本である。熱しやすく冷めやすい国民性ゆえ、一日も早くブームが去り、平穏な日々が戻ってくるよう、切に願う次第である。