学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

思想が先か制度が先か

「思想が制度を造るのか、制度が思想を産むのか」という問いかけは、「ニワトリが先か卵が先か」という問いかけと同じく、不毛なことなのかもしれない。ある考えに基づいて制度が造られるのか、逆に制度が成立してのちに思想が産まれてくるのかというプロセスの話は、結果を重視する現在の世の中では重要ではないのかもしれない。

モンテスキューはイギリス議会をつぶさに観察して、三権分立という考え方を編み出した。モンテスキューにとっては、既存の制度を整理し、位置付けを見直し、概念化したにすぎない。しかし、今では広く知られるところだが、実際のイギリスは「議院内閣制」の国である。すなわち、三権分立どころか立法権行政権の結合した政体なのである。加えて、イギリスの最高裁判所貴族院の中に設置されている、三権融合の政体なのである。モンテスキューは観察を間違えていた。

一方で、モンテスキューの産み出した考え方は、アメリカに渡ると、市民の自由を確保する機構として実現した。いわゆる大統領制である。アメリカ建国の父たちがモンテスキューの書いたものを熱心に読んでいたことが知られている。市民の自由を制限する国王を排除したいものの、当時は国王の存在しない国家など信じられなかった世界なので、選挙で選ぶ任期付きの国王を創設したのである。だからこそ、アメリカではホワイトハウスは小さく、議会は丘の頂上に位置している。こうした考え方の原初は古代ギリシャに求められるが、人工国家大統領制は、テキストを元に造られていったのである。

イギリスでは制度が先にあり、誤った観察はその後にも影響を与えることなく、イギリスは今も議院内閣制の母国である。一方のアメリカでは、思想が先にあり、制度が造られている。こうした例は数多く挙げられるから、どちらが先かという議論は、具体的な事例や場合によって異なるとなるから、不毛である。しかし、考え方は突拍子もなく白紙から生まれることはなく、既にあるものへの観察から生まれる。これは科学的手法である。このプロセスにあって、先に存在していたもの、これから存在させるものという視点は、考察を深めていくうえで重要なものであると確信している。

懐疑主義的な視点から経験を検討する姿勢こそ、考えるという営みに欠かせないものである。既に存在しているものを改善したり、既存のものに欠けているものを創造したりしながら、人類は漸次的に「今」を生きている。いきなり新しい世界を創造するのではなく、今の世界を保守点検していく在り方が望ましいと思う。