学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

道徳と倫理

最近、とある学生が宗教について考えていて、彼の専門(シティズンシップ教育)からしても、「公」「公共」との関わりから重要である「倫理」とか「道徳」というものについて考える機会を得たので、それをここに記しておきたい。

西洋思想で言えば、この両者に違いはない。いつものように語源を辿れば、「道徳 moral」の語源はラテン語の mores、「倫理 ethics」の語源はギリシア語の ethos である。ラテン語由来かギリシャ語由来かの違いであり、語源ではどちらの言葉も 「慣習、習俗」という語義である。ラテン系・ギリシャ系のそれぞれの社会で「慣習、習俗」を表す言葉があったということである。

しかし、言葉が2つあればそれぞれに異なる意味を持たせようとするのが人の常である。たとえば、カントは Moral を広い意味の言葉とし、Moral (=道徳) の中に Recht (=法) と Ethik (=倫理) が含まれると定義しているが、同時代人のヘーゲルは逆に Ethik (=倫理) のほうを広い意味の言葉とし、Ethik (=倫理) の中に Moral (=道徳) と Recht (=法) が含まれると定義している。つまりは、使う人がこの言葉をこう使いますよと宣言しているだけで、内容的な明確な区別は存在していないようである。

さて、これを東洋思想ないし日本思想で見てみると、事情がやや異なる。儒教などの細かい専門領域を無視してざっくりと概説すれば、「倫理」の「倫」は「人の集まり」という意味であり、「倫理」とは「人の集まりにおける理 (ルール)」となる。また、「道徳」の「道」が「倫理」と等しい意味を持ち、「道徳」は「徳」に重点が置かれて「徳=体得した状態」であると言えるようだ。これに従えば、「道」と「倫理」が「あるべき姿」を示し、「道徳」はそれを実践している状態である(ブリタニカ国際大百科事典)。なるほど。小学校で「道徳」として実践を促し、高校で「倫理」として概念理解を促す。ちゃんと意味があって呼び名が変わっているのだ。

大人であれば、概念をきちんと理解したうえで実践できる状態が望ましいと言えるだろう。少なくとも現代日本においては、高卒以上であれば、この状態が達成されていると学習指導要綱上はなっているわけだ。理念上では「倫理」が先に来て「道徳」へとなるわけだが、教育上は実践が先に来て理解が後になっている。これは意味も分からないままに論語素読させ、人生経験を積んでいくうちに言葉の意味するところが噛み締められるようになるというような、従来からの日本の学習様式である。最初のうちは意味は分からずとも、とにかくお手本を真似させていこうとするもので、習字や伝統技術などもこの様式であろう。

いずれにせよ、「倫理」とは仕組みや理論であり、「道徳」は「倫理」の実践を伴うものだと理解できた。とすれば、「倫理」は畜生や禽獣にはない人間ならではの「本能+α」であり、それを実践できて初めて「社会(人の集まり)で暮らす人間」にふさわしくなれるということだ。そして、「倫理」の仕組みや理論をさらに改善し昇華していく営みに積極的に参加していくことが、シティズンシップであり、そうした要求に耐えうる人材を育てていこうとするのがシティズンシップ教育ということになるだろうか。

自分が人を教えていく中で、教科を通してこうしたことを教えていくのだという戒めを胸に、今後も努力を重ねていこうと思う。もちろん、自分自身を育てていくということと他者の成長の手助けをするという二本立てである。僕がすでに大成したわけではない。