学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

完璧ということ

完璧主義者に安穏は訪れない。でも、完璧主義者には憧れる。なんせ仕事も遊びも完璧なのだ。とはいえ、しょせんは人間のすること。人間のすることに真の完璧ということは存在し得ないだろう。だから、人間のすることに完璧という場合、神学的・哲学的・思想的な絶対の完璧ではなく、相対的に「比較的マシ」なものを完璧と捉えるようにするとよい。

その「比較的マシなだけ」を手に入れるには、まず第一にいろいろな状況をシミュレーションできる「想定力」が必須である。これはいくつものケースを想像する力である。この数が多ければ多いほど比較するものの数が増えるために「完璧度」が増す。2つしか比べるものがない場合と、5つあるものの場合では、当然、5つの場合のほうが完璧度は高い。

この想定においては、悲観主義的になるとよい。つまり、最悪のケースに備えるのだ。物事を悪いほう悪いほうへと考えていく。というのも、想定よりも事がうまく運んでいく場合には何の問題もないからであり、想定よりも悪いほうに事態が転んだほうが対策なり対応なりを迫られ、この対策・対応に失敗すると完璧から離れていくということになるからだ。どんな悪い事態になっても落ち着いて対策を立て、対応できることが、人間の行動における完璧を意味するのである。

昔からの言い方を借りれば、「石橋を叩いて渡る」ということに通じる。壊れるはずのない強固な石の橋を、一応叩いて安全性を確かめて渡ることから、用心し過ぎるほど用心深くなることを指す諺だが、これが僕の考える完璧である。もっとも、この諺は慎重すぎる人や臆病すぎる人に対して皮肉をこめて使う場合もあるが、石橋を叩いても渡らないということがなければ、慎重すぎるとか臆病ということには当たらないだろう。

慎重すぎるとか臆病との誹りを避けたいならば、この石橋を叩く作業を人前でやらなければよい。夜のうちにこっそりと石橋を隅々まで確認し、昼間、衆目の前では堂々と足音を立てて渡ればよい。陰での努力を尽くせということだ。もちろん、陰での努力は人に認められるものではないから、成果が出ない限り、第三者から承認されることはない。成果が出るまでは臥薪嘗胆である。

さて、この石橋を叩くということだが、ここでの注意は「情報は命」ということである。どれだけ多くの情報を持っているかということは視野の広さに繋がり、視点の多さに繋がる。つまり、想定(シミュレーション)の数が増えるので、「比較的マシ」というときの「比較対象」が充実しているのである。検討することが下手な人は、たいていは「情報は命」を軽く見ていることが多く、「このくらいでいいだろう」と勝手に天井を決めてしまう。もちろん、情報収集は際限がなく、どこまでも情報収集に走ることが出来る。そうすると、情報ヲタクに堕し、本末転倒である。どこかで止めなくてはならない。これが神ならぬ人間の「完璧」の限界なのであろう。

では、この「天井」はどこに設定したらいいのだろうか。天井の設定に必要になること、すなわち、「比較的マシなだけ」を手に入れる第二の力は、分析枠組みを持つことである。分析枠組みとは、簡単に言えば物事をパターン化してカテゴライズできる力である。一定の傾向を把握し、それらを分類できる力である。この過程では抽象化をしているわけだが、抽象化を通して多くの物事をまとめていくことが出来るようになる。こうして、情報を集めていく中で、新しいパターンを見いだせなくなったとき、情報収集に区切りが付くようになる。そこが天井である。

情報を集め、抽象化を通して分類し、現象様式をまとめ、それらを比較検討して到達するところ、そこが人間における完璧と言えよう。ここまですると、よほどのことがない限り、「想定外」は起きない。しかし、それでもなお、「想定外」は起きる。これが人間の限界でもある。だから、「完璧主義者」には「想定外の想定」を探し続ける強迫観念にさらされ、安穏とした日々が訪れなくなる。だからこそ、人間であることを受容して、開き直ればよいのである。

これだけの想定をしてもなお想定外があるというのは、自分以外の人にも想定が出来ていないことだと開き直るのである。これが独善的でない限り、または想定を多くしていることが周囲に知られている限り、または相手が自分よりも多くの情報や視点を持っていると知っていれば、周囲はその人を「完璧主義者」と呼ぶであろう。

石橋を叩いて壊すという言葉もあるが、完璧主義者が慎重になりすぎて臆病になり、最後に壊してしまうのは、その人自身である。哲学者が精神を病むのは人間という開き直りをせずに完璧を追い求めるからである。自分が壊れないように、開き直ることが、人間における完璧主義者に必要な第三の力である。