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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

ポスト・モダンについて

哲学思想

新春特別企画4回シリーズとして、当ブログの時代の捉え方について、第1回目は「ポスト・モダン」について扱う。実はこの「ポスト・モダン」は言葉としてよく耳にするものの、各論者の文脈によってさまざまに定義され、これと明確な姿を描けない。実に曖昧な概念をブログの設定に含んでいるのであるが、この理由を以下に追っていこう。

「ポスト」というのは、「~の後」という意味の接頭語である。つまり、「ポスト・モダン」というのは「モダンの後」という意味なので、まずは「モダン(近代)」とは何かという問題から出発しよう。ざっくりと言ってしまえば、リオタールの言を借りれば「大きな物語」が存在した時代がモダン(近代)である。たとえば、冷戦を代表とするような、あるイデオロギーによって成り立つ世界観のことである。

もう少し具体的に言えば、自立的な理性的主体という理念を持ち、道具的理性による世界の抽象的な客体化を通して、整合的で網羅的な体系性を構築した世界観である。体系的な全体像を得るためには、「中心・周縁」や「資本家・労働者」といった一面的な階層化を行なったり、等質的で還元主義的な要素を発見したりした。近代思想とは、こうした合理的で階層的な思考の態度を基底に持つ思想である。これはすっきりとしていて、物事を理解するのに非常に便利である。

ある意味で、高度に画一化された世界である。日本でも、最初はアパートに住み、カローラ(大衆車)を持つようになり、出世すると共にマンション・一戸建てを所有し、やがてはクラウン(高級車)を持つというような一連の「定型」が示されていた。「末は博士か大臣か」との言葉は、子供の将来を願って出世の最高峰という意味で、才能の一端を示した子供への賛辞であった。博士か大臣になれば、人生は安泰という「道」が存在していた。また、大量生産・大量消費という資本主義のシステムは、合理的な理性を持つ人々の間の整合的な網羅的な体系を持つ世界観の構築を大いに助けた。

このような皆を包摂する「大きな物語」が崩壊した時代が「ポスト・モダン」である。ポス・ドクといわれる博士出身者が路頭に迷い、大臣ないし大臣経験者が素人のようにも扱われる今にあっては、もはや「定型たる道」は存在しない。こうした崩壊を受けても、ポスト・モダンそのものは、モダンへの批判という形であるため、「~ではない」という主張であって、「~である」という肯定的な思想たり得ない。「~ではない」のならば何なのかという問いには答えていないのが「ポスト・モダン」の最大の特徴である。だから、モダン(近代)の一つ一つの側面について批判的に否定していく堆積物としての思想にならざるを得ず、体系性を失い、多様性が跋扈するようになったのである。構造主義的思想が物事を構造的に分解し、その端緒を批判していったが、これは「大きな物語」の解体作業であったと言えよう。

現象としては、出世してお金持ちになってもアパートに住み続ける一方で、車は高級外国車を乗り回したり、そもそも車を所有しなくなったりという「大きな物語」からの逸脱が見られるようになったのである。いわゆる「若者の~離れ」という現象は、モダン(近代)を生きた大人たちによる「定型」の通用しない価値観を持つ若者への戸惑いである。大人になれば「新聞を購読し」、「酒を飲み」、休日は「ゴルフをし」、正月には「里帰りをし」、盆には「墓参りをする」というような定型が崩れてきているのである。そういうことをせずに過ごしても自由じゃないかという発想であり、それを尊重しようという多様性の許容である。

こうした画一性や統一性といった体系の存在しない世界、つまりは多様性の存在する混沌とした世界が当ブログの設定する時代背景である。いろいろな事象が階層性を否定して対等に並立し、複雑系の世界の住民たる我々にとって、近代理性では把握しきれない混沌とした世界にあっては、理性よりも感情的になるほうが自然である。理性が世の中を集約できないならば、信頼に足るものは自らの内より湧き出でる感情のほうが確かなものであり、信じられるからである。

ポピュリズムを始めとした現象が2016年に取り沙汰されたが、これも大局的には「ポスト・モダン」現象なのである。とはいえ、「モダン」は潰えたものではない。現在は「モダン」と「ポスト・モダン」の混交であり、「モダン」は滅び去ってはいない。前述したように、「ポスト・モダン」はこれという主張を持たない世界であり、「モダン」に取って代わる新しい何かを構築したものではないし、「ポスト・モダン」においては「モダン」もまた許容されるべき多様性の中の一つとして、残っているからである。

取って代わるべき新しい何かがないからこそ、思考を進めるためには理性を活用し、世界を理路整然と体系化していこうとする試みが必要であり、その中から「新しい何か」が発見されるであろうと思う。「ポスト・モダン」の否定的な批判を参考にして、肯定的に構築していこうとするもがき、あがきこそが役立つであろうとの視点から、当ブログを執筆している。もっとも、これ自体がそもそも「モダン」という古い世界観から逸脱できていない証左ではあるが、過去をよく知らぬものに未来は描けない。原稿をよく読まなければ加筆修正もままならないのである。