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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

議論のルール

政治論考

かつてインターネット上で「フィンランドの小学5年生が考えた議論のルール」なるものが流れた。これは以下の本で紹介されたものだという。この本の紹介と「議論のルール」を以下に記す。

図解 フィンランド・メソッド入門

図解 フィンランド・メソッド入門

 

1.他人の発言をさえぎらない
2.話すときは、だらだらとしゃべらない
3.話すときに、怒ったり泣いたりしない
4.分からないことがあったら、すぐに質問する
5.話を聞くときは、話している人の目を見る
6.話を聞くときは、他のことをしない
7.最後まで、きちんと話を聞く
8.議論が台無しになるようなことを言わない
9.どのような意見であっても、間違いと決めつけない
10.議論が終わったら、議論の内容の話はしない

さて、我が国の国会では昨日、発言者がヤジに反応して「黙って聞け」と言ったことにたいして、野党から批判が出ている。国会においては「不規則発言」なるヤジについては「なかったこととして無視する」のが慣例である。というのも、それは議事録に載らないからである。ところが、発言者の「黙って聞け」は議事録に載ってしまう。その発言は「国会の品位を貶める」というのである。くだらない。

ヤジのある国会そのものに品位がない。いや、もう少し正確に言うと、ヤジに品位がないのである。僕はヤジそのものには否定的ではない。「良いヤジ」というものはあるからである。ヤジは議論を活性化させるし、ウィットやユーモアに富んだヤジは本質を突いていることも多く、また、それにやはりウィットやユーモアで切り返す様は、政治家の本領発揮というところだからだ。政治家の本文の1つは、スピーチのうまさである。政治家は人々を鼓舞し、説得し、啓蒙して、自らの政策を進めていくものである。

「議論のルール」を見ると、話者への注意は2、3しかないのである。1、4、5、6、7は聴衆への注意である。8~10は、話者に対しても聴衆に対しても通用する。「議論のルール」を定めたものが、話すほうよりも聞く姿勢に重点が置かれていることは注目するべき点であろう。そして、もう1つの注目点は、8~10へ考えが及んでいることである。

「議論が台無しになるようなことを言わない」は、議論を建設的に進めていこうという精神の表れである。議論の参加者が共通して前向きな姿勢でなければ議論は成立しないのである。議論は決して潰し合いではない。討論とは異なり、1足す1を3にも4にもしていくための話し合いこそ議論である。議論で言えば、国民のためにという点では一致していなければならない。相手の足を引っ張ったり、揚げ足をとったり、党利党略のために相手を貶めることでは決してないのである。この視点が抜ければ「国民のほうを見ていない」という批判に繋がる。

「どのような意見であっても、間違いと決めつけない」は、多様性を叫ぶ一方で多様性を排除してしまいがちな日常への警鐘でもある。「差別をする人は絶対に許さない」と他者の存在までも抹殺してしまう原理主義者の存在は、国際政治の中だけではない。理想主義的な「絶対的正義」を振りかざすほど危険なことはない。差別を擁護するわけではないが、「盗人にも三分の理」はあるという姿勢こそ求められる。

最後の「議論が終わったら、議論の内容の話はしない」は、正直、小学生に脱帽した。「議論」のルールなのに、議論の場を離れたところに意識が向けられているからだ。昨日の米大統領選討論会で、議論を終えた後に両候補が笑顔で寄り添い、握手をした場面は、成熟した議論文化のある象徴だと感じた。いろいろな場面で何度も都知事を無視した態度を採り、ないがしろにする都議会の一部には落胆を通り越して呆れてしまう。

それにしても、小学生が実践を目指して決めた「議論のルール」が大人の世界、国政・地方政治の場でもそのまま「守りなさい」と言わなければならないほど出来ていないことは情けないかぎりである。自らへの戒めとしても、意識を続けていかなければならないと思った。