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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

21世紀の自然状態

政治論考

鬼怒川が決壊した常総市に本社を置く菓子メーカーの駄菓子や、農林水産省が14年12月に発表した平成25年農業産出額で6年連続全国2位を獲得した茨城県の野菜や果物を「食べて支援しよう」という動きがツイッターで広がっているという。現地に赴いてのボランティアだけでなく、現地の企業や農家を応援して黒字にし、結果として役所の税収入も上げて、被災した地域の復興に貢献しようという動きである。

安保法案に反対する学生組織や母親の会なども、その構成メンバーはまったく見知らぬ人同士の連帯で、ツイッターやSNSで参加の輪を広げていった。あるいは、東京オリンピックのエンブレム問題での巷間の指摘もインターネット上から発生した。

近代以降の交通の発達は、人の移動への制限を取り払い、人々の流動化を招き、所属する集団の連帯が失われ、地縁を基にする集団は徐々に消えていった。そして、一時は労組などの職業集団が地縁に代わるものとして興隆したが、個人の多様化が受容されていく中で衰退していった。

もはや「父親とはこういうもの」「就職したら労組加入」というような「テンプレート」が多くの場面で通用しないものとなっている。ライフ・スタイルも個々それぞれとなった。金持ちだから豪邸に住まなくてはならないというような価値観もなく、金持ちでアパート住まい&車なしも普通に見られる現象となった。かつて車は高嶺の花で、働いて最初に買う車は日産サニー、出世するにつれていつかはクラウンという掛け言葉があったが、今はそうした型もない。

プライバシーという概念が輸入され、個の確立が言われ、プライバシーへ土足で侵入してくる地域のしがらみを面倒に感じ、嫌悪して、人々はそれからの解放を願った。完全に断ち切るのではなく、薄めたと言うほうがより正確であろうか。そして地を離れた人々はだんだんと疎遠になり、都会ではもはや自治組織や町ぐるみの防犯といったものは縮小していかざるを得なかった。協力体制が消えた。

そう思っていたら、インターネットという空間的距離を無にする「共有の場」が力を持つようになった。そこでは年齢も性別もなく皆が対等で、よけいなしがらみもない。しかし、仲間意識とでも呼べるような連帯は生まれている。地縁からしがらみを差し引いたもので、人間的温かみがあるようなコミュニケーション空間である。

このこと自体は10年ほど前から言われていたことだが、昨今、目に見える形で現実化してきたと実感する。つまり、バーチャル世界での「共有」がリアル世界での「共有」へと姿を変えてきた。最初はゲームの世界だったのではないかと思う。同じゲームをプレイする者同士の交流である。それがバーチャル空間を離れて「オフ会」という現実の会合を実現し、今は目的のために人々を動員する手段へと変貌した。

インターネット空間は、今のところ、匿名の無政府状態である。もちろん、一朝ことあれば警察がログや接続情報をたどって本人に行き着くことも可能だが、「世論」とでもいうべき意見が形成されると、もはや一人二人の問題ではなく、最初の出所は認定しがたく、仮にできたとしても、そこでの逮捕者は英雄にすらなりかねない。現実世界でのうねりを形成するきっかけになる。しかし、現状、歯止めが効かずに暴走してしまうこともまた確かなことである。

これを「自然状態」と定義し、ロック、ルソー、モンテスキューの考えたような筋道で、「21世紀の自然状態」を考察していく必要性が出てきたのかもしれない。多くの人々が集う新しい公的空間をどのように形成していくのか、人類の叡智が求められている。