学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

学力崩壊の大学教授

毎週月曜の23:15から放送されている「橋下×羽鳥の新番組(仮)」を視聴している。久しぶりに「まともな討論番組」かと期待していたのだが、レベルの低い大学教授の出演によって、その質を大いに下げられていることが不満だ。

森永卓郎教授は「論客」という枠組みで出演しているが、彼には論理性などどこにもない。元大学教授で参議院議員も務めた田嶋陽子氏にいたっては、きわめて感情的で結論ありきであり、その発言には傾聴する価値もないと感じる。もう一人、大学教授である尾木直樹氏に至っては学問的な背景もない実務家であろう。

討論をする際には、①事実に基づいた認識、②理想(目的)と現実(手段)を明確にすること、③自分の都合の悪い事実や意見こそ重視する、という3点が非常に尊重されなければならないと考える。

まず、事実に基づいた認識とは、憶測や推測でモノを言わないことである。推論できることはしても構わないが、仮定を明確にして筋道を通し、仮定が間違っていればすべてをご破算にする許容を心に持ってするべきである。一方で、仮定が多く存在すればするほど、その論理は架空のものになっていき、意味のない空論になってしまう懸念も生じるので、仮定は最小限とし、多く出てくるならそれは調査不足ということで、場を改めるくらいでなくてはならない。

次に理想(目的)と現実(手段)の明確な区別だが、理想を追求するあまり手段が非現実化していく愚を避けるべきである。「理想の世界観」はどれだけ非現実的でも構わないが、それを性急に実現しようとするあまり、手段が現実から離れて純粋化することを避けねばならない。森永卓郎氏は在日米軍は即刻退場し、いざという時の自国防衛では、日本国民が竹槍をもってベトコン化すればよいと述べた。これは感情的に引くに引けなくなったうえでの極論であり、極論は非現実的となる。

理想を追い求めれば非現実的になるのは道理で、そこから導かれる最良の解決手段もまた非現実的になる。この非現実的になった手段論を極論という。しかし、この極論は無意味なものではない。議論は極論からスタートして、現実と妥協をしながら実現可能性のあるものへ到達して終わる。左端に極論という改革・改善案があり、右端に現実という現状維持がある。左端にある極論をどんどんと右に移行し、その中間点をどこで止めるかというのが建設的な議論なのだから。

そして最後に自分に都合の悪い事実や意見の重視であるが、これは多くのデータに当たったり、必要ならデータを作成したり、また、反論や自らと反対の立場にある論者の意見を深く検討することである。多くは読書をすることで可能となるが、実地調査も不可欠である。自らに快く響く論理は、自らと同じであればあるほど軽視してよい。判断をするためにはより多くの正確な情報が必要となるが、民主主義において情報開示が重要視されているのは、この理由に他ならない。

そして、ここの最後の場面でこそ、大学教授や学者の出番である。普通の人がデータを作成したり、実地調査をしたり、膨大な書籍を隅から隅まで読んでいくような真似はできないからである。大学教授や学者は、それこそ日がな一日、これを生業として取り組んでいられる立場である。にもかかわらず、前述の大学教授たちは政治家を生業とする橋下徹氏にこの場面で敗退している。橋下徹氏よりも「知らない」のだ。これは恥ずかしいとしか言いようがない。

大学教授や学者は、一般の人々がいざ何かを知ろうとした時、そこに情報やデータを与えてくれるからこその存在価値である。必要となってから行動するのでは間に合わない。だからこそ、普段からの備えとして、何が必要になるか分からないから、あらゆる分野に専門家がいるのである。一見すると、普段は無意味な人々ではあるし、非生産的でもある。無駄にも見える。でも、そうしたところにお金と時間を割ける余裕がなければ、より生産的で効果的なことが生まれないのである。この意味で、実益にすぐに結び付く産学協同は、逸脱の産物ではある。

大学のレベル低下が言われるようになって久しいが、もっとも懸念すべきはそこに籍を置いている教授のレベルなのではなかろうか。彼らが自分の専門分野について、人類をより幸せにするために当該学問研究が果たせることを日々問いかけながら、空想の世界に入り込むことなく、地道な作業を積み重ねていくような大学教授や学者が減ったことこそが、日本の学力崩壊の原因である。教師こそ、まず最初に自らを省みて精進を重ねていかなければならないと感じている。