学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

考えるということ

普段、なにげなく、「犬はかわいいね」などと言葉を交わすとき、「犬的ななにか」の共通点を漠然と思い描いている。この共通項を抜き出すことを「抽象化」という。「犬」といっても実に多種多様で、犬種だけでなく、年齢や性別、大きさ、毛並みなど、すべて異なっている。にもかかわらず、脳は漠然とした「犬的ななにか」という抽象概念を手に入れ、会話を成立させているのだ。実に不思議な現象である。

我々はすべてを言葉という記号に置き換えて理解している。そうして世界を抽象的に捉え、理解し、把握し、整理し、考えている。こうした考え方はソシュールが考え出したものであり、今更取り立てて言うほどに目新しいことではない。しかし、実際には、真の理解のためには、我々の頭脳は抽象概念のままでは考えを進めることはできず、抽象概念を必ず具体化している。

さきほどの「犬」をめぐっては、たとえば、Aさんは今朝、通勤途中で目にした散歩途中の犬を具体的に頭に描きだして「犬はかわいい」といったのにたいし、Bさんは自分の家で飼っている犬を念頭に置いて「そうだね」と返しているのである。言葉を使うということは、このように抽象と具体とを往復するということである。

論理的な文章であれば、筆者の主張は一般化された普遍的な抽象概念として表出され、続いて同じことが具体として繰り返される。これは英語などの外国語であっても、研究論文であっても、まったく同様である。こうした言葉遣いに慣れることが、本を真に理解するためにも、文章を真に書くためにも必要である。こうして論理力を鍛えていく。

と同時に、目の前にある具体から抽象を抜き出し、「目に見える世界」を「目に見えない世界」にまで拡張していくことができるのもまた、論理力である。つまり、観察などを通した個別具体なものを一般的で普遍的な抽象概念へと昇華していくことで初めて、第三者を説得していくことができるのである。そして、これが学問世界への入り口であると思う。

これは、昔ながらの表現でいえば、形而上と形而下という問題である。形而上というのは、抽象概念の世界で、哲学や思索の世界である。一方で、形而下というのは、目に見える具体的な世界の事物である。目に見えるものは目に見えているので、健常者ならば誰しも可能なことであるが、それを論理の力を用いて、形を成していない、目に見えないものを探り出して一般化・普遍化するのが学問である。

しかし、これはなにも難しいことではない。冒頭で犬の例を出したが、我々は日常生活の中で無意識にこの作業をしている。これを意識的に行ない、漠然と抜き出していた抽象概念を明確にしていくというだけである。たとえば、「犬」と聞いて、大型犬にも小型犬にも、洋犬にも和犬にも、すべてに共通する概念とは何であろうかと改めて問われれば、即答できる人はいないと思う。しかし、日常で犬の話題が出た時に、「犬はかわいいね」に対して、「それはなんていう犬種の何歳のどんな毛色の犬の話をしているの?」と問い返す人はいない。やはり、抽象概念を持っているのである。

そして、この「犬」というものにおける共通した抽象概念を明確に定義した時、その表現は動物学者かなにかのようになっているであろう。つまり、日常で途中で止めていた思考を論理的に進めていきさえすれば、学問にまで昇華できるということである。こうした態度が考えるということ、学問をするということの入り口にある。

もちろん、いちいちすべてについて、そのようなことはしていられない。人間の一生は短いし、そんなことをしていても、時間の浪費である。先人の肩の上に乗って見渡せば、より広い世界が見られるというものである。だから、先行研究や誰かの研究成果を知り、取り入れていくことは、考えることと学問の必須条件である。なにかを考えようとするときには、まず資料を集めることから始めるべきである。でなければ、それは思考ではなく妄想になる。