学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

『意識高い系(笑)』追加記事

2015年8月27日(木)配信の『意識高い系(笑)』記事に関連して、東洋経済オンライン 8月29日(土) 6時00分配信の『志願者が殺到する「人気の大学」トップ100』の記事の中に興味深い報道を見かけたので、追記しておきたい。

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 「最近の入試では、就職を考えながら学部・学科を選ぶのが一般的」という部分だ。僕の記事では、1、2年生から就職活動に参加してくる学生が増えたことを意識の高い学生が増え、それが主流になりつつあると記したが、入学する前から就職を見据えているということになる。先日の僕の考察は少し修正が必要なようだ。

大学がますます「就職予備校」としての色を強めたということだ。夢を追いかけ、学問を志し、努力した末に就職があるのではなく、就職の要因が先に来て、どの学問を学ぶかということが優先順位を譲っているという現象だ。入学した学部の学問を好きでないという学生、高校の時に世界史をやっていない、日本史をやっていないという法学部生が増えた背景にこれがあるといえよう。

入学した学部学問にまったく興味がないわけではないだろうが、追究する気持ちほどには強くないのであろう。文系の場合、理系ほどには職業に直結しないので、なおさら簡単に学部決定をしてくるだろう。就職業界を決めるという意味では、文系のほうがよりモラトリアムにあるわけだ。もっとも、理系であっても、入学後にその業界に興味を失い、「こんなはずじゃなかった」と思う学生もいるだろう。この場合、転換は文系ほどに容易ではないので、流されて「なんとなく」その業界に就職した例も出てくる。

つまり、ポスト・モラトリアムになって、「意識高い系」が専門分野を牽引するのではなく、意識が学問よりも「就職先」に向いている「意識高い系」であるなら、専門分野の能力低下は文系学部に限ったことではなく、広く全般的な傾向にあるということだ。意識の高さが大学生活の充実や学問への追及姿勢ではなく、就職に向いているのならば、「最高学府」の「学府」自体が形骸化していることになる。大学生活の充実や学問への追及姿勢の結果として、就職がついて来るような形でなければ、「最高学府」の意味がない。

「意識高い系(笑)」を投稿した時、念頭にあったのは、就職というきっかけで大学生活や学問を頑張る学生の出現である。そうした大学生の行動の結果が就職で評価対象となるわけで、その中身を育てようという意識が働いたのだと思っていたということである。文系学部の質を確保する「全国統一大学生テスト」の投稿も同じ路線の延長線上である。しかし、この東洋経済の記事に触れて、大学を「就職へのツール」として技術的に利用しようとしているのではないかという思いが生まれた。「最高学府」ならぬ「就職予備校」としての側面を強く感じた次第である。「大学受験予備校」が学問やその楽しさを教える場ではなく、合格するスキル、テクニックを教える場であるように。

教育分野での教師のサラリーマン化と同じように、科学分野や医療分野でのプロフェッショナル度が今後の課題として、日本の将来に暗い影を投げ掛けている。教師の質の低下と同じような問題が、今後、他の分野にも目に見える形で表れてくるだろう。いや、理化学研究所の問題、音楽でのゴーストライター問題、オリンピックのロゴ問題など、実はすでに表れている現象なのかもしれない。