学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

母国語の危機は知性の危機

明治維新の時、当時の日本人は外国から輸入される新しい思想や制度について、一生懸命に学んだ。それまでの日本に概念すら存在していなかったものを理解するためには、ものすごい苦労を必要としただろう。その苦労は、「雪」という単語を持たない赤道直下に住む人々に「雪」を説明し、さらには「粉雪」と「ベタ雪」の区別を教えるのに喩えられるだろう。

有名なところで言えば、「経世済民(よをおさめ、たみをすくう)」の略語「経済」を"political economy"の訳に当てたり、封建制の身分制度の中にあって平等という概念の希薄だった日本人に"equal"を「人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と上下関係で説明したりするなど、先人の苦労は偉大である。そして、よくよく言葉の概念やニュアンス、原義などを吟味していたのだろうと思う。

さて、一方の現代日本では、カタカナのまま外国語が日本語としての地位を獲得することが多くなったように思う。もちろん、漢字、ひらがな、カタカナという3種の文字が存在する日本語の特異点であり、優秀性を示しているともいえるが、しかし、それに甘えて安易に外来語を輸入しているきらいはある。安易に、というのは、その語の示す意味が不明であったり曖昧であったりしたままに使用する風潮である。

ある言語で豊かに表現できるということは、その言語が優れているという証左であり、その言語を持つ民族の優秀性の表れでもある。生活に密着した日常に必要な言葉が充実しているのはどの言語にも共通することだが、そうでない言葉群、とりわけ、学問に使用するような高度で抽象的なものを表現できる言葉があるということは、とてもすごいことなのである。そして、言語と文化は不可分であり、文化を醸成する民族の理解力の高さを示しているといえるのである。

翻ってみれば、いわゆる後進国は自国言語では高度な表現ができず、公用語として英語やフランス語を用いている例が多い。また、国内に多くの部族とその部族語を抱える国は、部族間の交流を図るために公用語(元来は外国語)を使用している例も多い。つまりは、自国言語に翻訳ができるということは、それだけ先進国であることの表れでもある。

グローバル化時代を迎えて、会社公用語を英語にしようというような動きも出てくる中、僕はグローバル化時代だからこそ、母国語能力を磨くよう強く主張したい。いわゆる知性は、世界各国と渡り合っていくためにも必須のものである。中身が充実していなければ、言語がいくらできたところで空虚なものにしかならない。外国語ならもちろん、母国語でも理解の及ばない曖昧な理解で物事を考えても、その成果はたかが知れている。深い考察はそれぞれ母国語の中でこそ可能なのである。そして、幸いにして、日本語はその要求に耐えられるだけの文化水準を備えた言語なのである。

もちろん、該当する翻訳語がないからといって、自己流の意訳・翻訳をしろと言っているのではない。言語はコミュニケーション手段なので、造語による定着していない表現を用いることはコミュニケーションそのものに支障をきたす。しかし、外来語をカタカナのままで使うことは、知性の衰退を招くから、カタカナに出会うたびに母国語に直そうとする努力は必要である。なるべくカタカナを用いないで漢字とひらがなで表現する努力が必要である。やむをえずカタカナ外来語になる場合も、なるべく、その意味や概念を捉えてから用いるようにしたい。その努力の過程で知性が磨かれるのだから。