学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

盗っ人猛々しい

今日は暦では「大暑」。24節気の一つで、一年で最も暑い日と言われるが、僕の住む関東では梅雨明けが遅れ、23℃と5月の陽気である。季節感が狂う昨今ではあるが、狂ってきたのは人の感覚、人の常識も同様のようだ。

奨学金を巡る問題が、少し前から巷間話題になっている。政府も「給付型奨学金」創設の検討をしているという。この問題は、一括りに「奨学金を負っている人」を対象とするには、語弊を生じる。奨学金の趣旨を鑑みて、受け取るにふさわしい人が存在するからだ。僕が問題としたいのは、大学へ進学することを当然視し、返せないことを開き直り、帳消しにしろと「強く要求している人々」だ。

これは、今の時代、多くの人が車を持ち、家を持っている(借りている)。だから「車や家を買いました」「ローンをしました」「払えないから払いません」「もちろん、車も家も僕のもの」「政府が徳政令を出すべき」という暴論と同じである。「奨学金」という表現が悪く、「学生ローン」「教育ローン」と改めるべきだとの主張はもっともだと思う。利子や負担割合は大きく異なるので若干の語弊は生じるが、それでも「借金」という本質は変わらない。

しかしね、借金を背負ったのなら、学生時代の節約やバイト収入を貯めていくとか、そうした慎ましい生活を送る覚悟をせねばならない。車や家のローンを背負ったのなら、それなりに節約・倹約に努めるのは普通であろう。普通の生活をして楽しい学生生活を送り、勤労収入でもない収入もどきを得て勘違いした生活を送り、そのツケが回ってきたら返さないというのは、もらい者勝ちではないだろうか。そんな資金を提供する人はいない。それを国としてやるというなら、納税者として僕は反対である。

このことは、生活保護でも同じである。生活保護を受給するのはかまわない。しかし、それは「平均的な普通の生活」をするのではなく、「最低限の生活」をする慎ましいものであるべきだし、権利として図々しく主張するものではなく、申し訳ない気持ちを持って感謝するべきものである。普通の生活をして学生生活を謳歌して、その費用をよこせとはおかしい話である。苦学生を見れば援助をしようと思うが、やれ飲み会だのやれ遊園地だのということにお金を使い、本を買うお金がないという学生を援助する気にはなれない。

僕の知り合いに、朝に新聞配達をして学費を稼いだり、親に大学進学を反対されて高卒で働いて学費を貯め、20才から大学へ通った人もいる。大学進学は、「みんなが通うから僕も」という類いのものではない。なにをしに大学へ行くのか、費用対効果も考えて、大学で得ることについて、真剣に考えるべきことである。家を買うのは一生の買い物として、よくよく検討するものである。同じように、若い20才前後の時間と数百万円というコストを考え、それで通いたいとするなら、行くべきである。そういう人が進学しようという際に経済的困窮にあるなら、助けようというのが奨学金の本来の趣旨である。

もちろん、社会や大学の責任もある。社会は大学へ行くことを採用の条件にしたり、大学も中身のない遊び場と化している内容を改めるべきである。社会は大卒でなくてもできる仕事に大卒資格を求めないことを、大学はきちんと高度な専門性を身につけなければ学位は授けないという厳しさを持つべきである。実際に工学や薬学などの理系学部では就職率が高い。それだけの専門性を有しているからである。一方で、社会はすでに大卒レベル給料(高い専門性に対するコスト)を維持できず、大学は経営のための学生確保に走っているというような現状こそを改めるべきである。

格差社会というような社会問題の側面もあろうが、奨学金返済をできないという人は、果たしてどのような学生生活を送っていたのか、大学で習得する高い専門性を身につけるべくどのような努力をして身につけたのかと自問してみるべきである。努力だけではダメである。きちんと結果を得たのかということは重要である。一生懸命に取り組んでも、サービスの質が悪ければ、その人は職を失う。これは社会の現実である。それでも金をくれというのは、おこがましい甘えではなかろうか。

本当に学費を必要とする学生には、給付型奨学金を給付してもよいと思うし、そのための制度作りにも賛成である。しかし、財政難の国家や地方自治体の状況を思えば、垂れ流すわけにはいかない。学生は学生で、そうした制度に感謝し、精一杯に高い専門性を身につけるべく勉強に励むべきである。大学教育が与えられて当たり前というような厚かましい考えは捨て、自分の行為と成果に社会が応援してくれるものと捉えるべきものである。そこで身につけた高い専門性を活かして社会へ還元していくからこそ、先行投資として社会が学生に給付するのである。だから、行為を慎ましく、成果を出すべく努力する。これが本来のあるべき姿である。

まじめに生きている人たちが苦しんだり馬鹿を見るような不公正を正し、遊び金を手にしてたいした成果も出せずにいる者には、約束が違うと厳しく借金取り立てをしてほしい。もちろん、借金をしても、きちんと返すなら、どのような使い方をしてもかまわない。しかし、奨学金は利子率などを含めて優遇されている借金である。あまりにも怠惰な使い道については、給付者としての社会が学生に苦情を言うこともできるようにするべきだ。

たとえば、単位をAレベルで何個以上取得すれば給付型に、そうでなければ無利子貸付型に、最低ランクや単位を落とした場合には通常の利子率適用に、というような制度設計もよいかもしれない。ちなみに、本気で学び、優秀であれば、現状でも企業や団体などが給付金型奨学金を提供していることは、強く伝えておきたい。

都知事選で推す候補表明

東京都知事選が展開されている。およそ候補者の公約なども明らかになってきた。そこで、ブログも一つのメディアであるから、欧米のメディアに倣って、当ブログでも政治的立場を表明しようかと思う。特定の思想がどうというのではなく、今回の都知事選においてどうかという検討をしたいと思っている。したがって、政党の支援は考慮の外に置こうと思う。とはいえ、最近の政党に原理原則や主義主張があやふやになっているところがあるので、どの政党が誰を押しているのかについては、思想的な検討を要しないであろう。政争や勢力争いによる呉越同舟状態であるのだから。

さて、当ブログでは、過去最大数の21人の立候補者がいる中で、小池百合子女史、増田寛也氏、鳥越俊太郎氏(立候補表明順)について考察をしたい。この3候補による三巴戦になると思っているので、他の候補には申し訳ないが、ここで評論しない。もし、この3候補以外の候補者が当選したら、当ブログの不明が明らかになるということだ。

まず、真っ先に僕が支持しないと決めた候補は、鳥越俊太郎氏である。一つには年齢が問題である。4年後には80歳になるだけでなく、4度の癌を患ってきたことに対する健康不安もある。桝添前知事が67歳にして毎週のように温泉保養に出なければならぬほどの激務である都知事職が、より高齢の健康不安を抱えた人に勤まるとは思えない。もう一つには、立候補表明の時の記者会見である。都の施策について、「知らない」「分からない」の連発は、都政を任せてみたいとは思えなかった。

また、彼が第一に掲げた政策は「癌検診100%」である。池袋での公示後初の街頭演説では、平日にプラカードを持った人々が押し寄せていたが、これも不安材料の一つ。普通の人の集まりでなく、市民団体に囲まれている印象を受けてしまった。一方で、こんなにも「癌検診」を支持している人がいるとは思わなかった。僕自身は、それよりも東京の少子高齢化対策のほうが大切だと思っている。

次に支持しないと決めた候補は、増田寛也氏である。彼のことは2014年のいわゆる「増田レポート」以来、注目していた人で、彼の主張には一目も二目も置いているし、多くを彼から僕は学んだ。そこでの主張は、やや乱暴な要約ではあるが、東京一極集中を改め、東京から人口を拡散し、東京の予算を地方にぶんどるというものである。どこか地方の首長であるなら応援をしたいが、こと東京の首長としては不適格であるように思う。東京を衰退させかねないからだ。

日本全体で見れば均すことはよいが、都知事であれば、それは他からの要求に応えての交渉や、国からの圧力に抵抗しながらも応えていくという方向になるはずで、最初から東京の首長が地方への分散を処方箋として持っているのには不適切と感じる。地方への移住を通して東京の医療・介護不足を補い、東京から発する日本の危機を地方活性化で解決しようと提案してきた増田氏には、ぜひとも東京以外で知事に立候補されることを勧めたい。

ということで、消去法的に小池百合子女史が東京都知事にふさわしいとの結論に達する。小池女史にしても不安がないわけではない。政界の渡り鳥で権力者を嗅ぎ分けて生きてきたところに誠実さを感じないし、秋葉原でコスプレをした自らの過去を述べ、東京全体をアニメランドにと迎合する姿勢を、僕は快しと感じない。秋葉原で東京をアニメランドにと叫ぶことは、権力者を嗅ぎ分けてきた嗅覚のなせる技なのかもしれない。

しかし、主張していることがもっとも明確で、抽象的なスローガンに留まる他候補とは一線を画している。2005年以降、東京10区を基盤としており、東京の事情に詳しいというのも強みであろう。一つだけいただけないのは、都議会の冒頭解散を公約に掲げたこと。知事には地方議会の解散権はない。つまり、権限にないことを確約したわけで、これは問題と思う。もっとも、冒頭で議会と対立し、世論が都議会をして不信任案を出させるように追い込ませられるならば、それに対抗して議会解散もできようが、ややアクロバティックな策であり、その実現性は低いであろう。解散されると分かっていて知事に不信任案を突きつけるような都議会ではなかろう。

つまり、小池百合子女史にしても、積極的に支持する理由はない。しかし、現実的に考えた結果、もっともマシだという判断である。21人という史上最大の立候補者数を得ながら、なんとも寒い状況だなぁとは思う。それは、劇場型大衆政治がもたらした結果であり、国民(都民)一人一人の選択の結果である。だからこそ、当ブログでは過去の様々なモノサシが通用しなくなる中で、しっかりと一緒に考えていきましょうと呼びかけているのである。僕もこのブログという場を借りて、思考停止に陥ることなく、しっかりと思考を積み重ねていきたいと思っている。

ブーメラン

最近の政治家、マスコミ評論家、運動家にたいして、言葉をないがしろにしているなぁと強く感じる。公的な場で発言をして、その自分の発言の重み、影響力を考慮できていないばかりか、その場しのぎの軽い言葉が横行している。あまりにも発言が軽いので、一つ一つの発言の意味すら考慮できていないのではないかと危惧する。ケースバイケースで発言するから、発言を抽象化した後、その発言が過去の自分自身の言動に跳ね返り、自己崩壊するパターン、すなわち、「ブーメラン発言」が相次いでしまう。

「言葉を出すまでは、あなたが言葉を支配しているが、いったん言葉を出してしまえば、今度は言葉があなたを支配する」という箴言がある。口にしたらそれを守らねば信義に悖るということだ。つまり、言ったことをないがしろにするかしないかは、その人の信用問題である。西洋の言葉を待つまでもなく、我が国にも「武士に二言はない」という文言がある。口にしたことは意地でも守るという姿勢が、信頼関係で成り立つ人間社会においては、きわめて重要なことだ。武士という支配者階級において、「二言」を持つことはタブーである。これを破るなら、その人の周囲の人間関係は崩れていくであろう。

言葉に注意をするということは、しっかりと思考することに繋がる。目の前にある一つの具体事例だけで考えず、そこから出発して抽象化し、原理原則に照らして間違っていないかと確認することが必要である。そのためには、原理原則という自分の信念をしっかりと持っている必要がある。そうして初めて、公的に発言ができる。口に出す言葉は思想を表すもので、その人の発言はその人の性格や思想を如実に表す。「うっかりと本音を漏らす」とか、「ほら!本音が出た!」というが、言葉に本音という、その人の思想が表れるものだというのは、一般的な了解事項であろう。

マザー・テレサの言葉に、「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから」というのがある。思考、言葉、行動、習慣、性格、運命という順に注目である。それぞれの積み重ねが次のものを呼び込む。ということは、思考と言動に慎重であれば、やがては運命をも変える力になるのである。

先に述べたように、人間関係は信用、信頼、信義である。これによって周囲にどのような人々が集まるかが決まる。それは最終的にはその人の生活環境という運命的なものに影響してこよう。誰と出会い、どのような影響を受け、どのような人生を歩んでいくのか、「住んでいる世界」が定まる。これは自らの境遇を単純に環境のせいにしないで、自分の影響力を行使できるところから始めて、最終的には自分の環境を支配するところに繋がる。今の環境は過去の自分の思考、言動に拠るものなのである。

だから、かつてチェスターフィールド卿は「付き合う友達を選べ」と息子に助言をしたのであろうし、「仲のよい友達を3人連れてくれば、君がどんな人物か述べよう」と言ったのである。現在の環境は、その人の人物に拠るのである。だからこそ、公的な言葉については、思考を練り、それと反することのない発言を心懸けるべきである。

と、ここまで書いて、昨今の政治家、マスコミ評論家、運動家には、思考が足りないのだなぁと思ってしまう。自らの信念がぶれていて、その場、目の前にある具体的ケースだけで「人を批判すること」が目的化しているから、その自らの発言が自らに降りかかってくることすら分からないのである。あるケースで「思ったこと」が、どのような考え方に繋がるのかを考え、矛盾をしていないかどうかチェックをしていく中で、自らの原理原則に気づけるであろう。それが明確になったら、その後の発言はより容易になる。

もちろん、経験を重ねていく中で原理原則の微調整も恐れずにしていかなければならない。変化をしてはならないという頑固なものではないからだ。かつてチャーチルは、「若いときに左派でないのは情熱が足りない。年をとって左派なのは知性が足りない」と言ったが、年齢とともに主義主張・原理原則が変化するのは当然のことである。変化よりも大切なことは、自らに向き合い、不断に思考を練り混んでいくことではなかろうか。

主権者として考えよ

陛下の生前譲位にまつわるニュースが14日(木)午後7時、NHKによりスクープされた。まず、指摘しておきたいことは、この話題はスクープ記事には馴染まない。宮内庁の公式発表を待つべき内容であり、宮内庁への取材を進めていく中で宮内庁声明として引き出す性質のものである。海外メディアも一斉に報道したが、それほどの内容である。また、スクープされても陛下も宮内庁も困る内容であって、スクープ記事を出せばスクープ内容が白紙に戻ってしまうような性質を持つ。

まず、生前譲位に対する陛下のお気持ち表明は、きわめて政治的性質を伴う。陛下の発言が政治的影響力を持つことは、現行立憲主義の立場から不適当である。陛下の政治利用は君主制民主主義を否定するものである。政治的責任とその追及を陛下に負わせないために、陛下は政治的中立のお立場にある。政治的責任とその追及は、内閣が負うのであって、だから陛下の公的活動にはすべて「内閣の助言と承認」を必要としているのである。陛下の国事行為に問題を生じても、「助言と承認」を与えた内閣に責任がある。

また、江戸時代に徳川幕府に対する政治的圧力として天皇退位があった。徳川将軍家天皇による任命があって初めて成り立つ体制であり、要求が通らないなら譲位すると迫ることは、政権に対する大きな牽制となる。もっと歴史を遡るなら、天皇天皇を退位した上皇との間で紛争(内乱)になったこともあった。だからこそ、天皇の退位は「崩御された時(亡くなった時)」として、人の意思の介在の余地をなくしたのである。

したがって、ご高齢の陛下を慮ってご公務のご負担を減らすべく、お気持ちを伺った上で譲位を可能にするというような流動性・柔軟性のあるかたちでの譲位は許されてはならないことである。かつて皇族の一部から意見が出て物議を醸したことがあるが、「定年制の導入」であれば、人の意思が介在する余地はない。また、一世一元制の元号についても、「いつ変わるのか」が明らかであれば産業界としても混乱は生じないであろう。皇族から出た意見だから物議を醸したのであって、「定年制」自体は論議に値する提案と思う。

現在の陛下の人柄や人格に依る制度設計は禁物である。不敬を承知で言えば、美濃部達吉が提唱していたような「天皇機関説」は、天皇に人性や人権を認めず、制度機関として扱ったところに抵抗感を感じる人も多いが、天皇を国家の象徴とし、人性を奪っているのは、現行憲法でも同様である。憲法の第1章に天皇が来て、その後(第3章)に国民主権が示されることから、定義の段階からして天皇は国民の枠組みから外れているのである。そして、その主権者たる国民による立法(第4章国会)、その立法に基づいて行動する行政(第5章内閣)、その行為が法に違反していないかチェックする司法(第6章裁判所)の順で定められていることは、きわめて論理的なのである。

したがって、「陛下のお気持ち」を勘案することは、恣意的な退位を可能にする道を開くことにも繋がり、そもそもそうした発言自体が皇室典範などの法律改正を要求していることになり、政治的にはきわめて大きな問題となる。これは「君臨すれども統治せず」という立憲君主制の根幹に関わる。皇室が安泰に末永く続くためにも、政治的闘争から離れた地位にいることが必須である。ケース対応による感情的な議論は廃し、理性的に対応しなければならない。もちろん、その理性的対応の動機は感情的なものでかまわない。

だから、「陛下のお気持ち」ではなく、国民一人一人が主権者として法制度を主体的に定めていこうとしなければならない。陛下が年齢や体力的に大丈夫だと主張しても、体を労ってごゆっくりとお過ごしくださいというような制度設計をするべきであろう。象徴として存在している以上、制度として存在している以上、そこには生物としての人間性は考慮されていない。健康問題や年齢問題は考慮されていないのである。

昭和天皇崩御される直前まで、宝算87歳まで現役の天皇で国事行為に当たられたことは、国民として、その国家統合の象徴に対する態度・姿勢がどうなのかと自問するべき内容に思う。今上陛下も82歳になられた。今回のスクープをきっかけにしたとしても、国民が自らの問題としてきちんと敬意を持って、象徴としての勤めを長年果たされてきた陛下に対し、考えなければならない問題であろう。当然、皇位継承についても、生まれによって自動的に継承順位が定まるような、つまり、政争の具とならないような設計が必要であろう。

蛇足ではあるが、皇太子殿下ならびに同妃殿下が頼りないというような論調をたびたびネット上で見かけるが、今上天皇がご即位された時にも、同様の論調があったことを付記しておきたい。先帝は馴染みもあり、偉大でもあるのだ。だから、このような論調は感傷的なものであり、考慮に値しないと思う。

東京都知事選告示前

7月11日、エネルギー閣外相のアンドレア・レッドサム女史が保守党党首選を辞退したため、テリーザ・メイ内相が保守党の党首となることが決まった。これを受け、キャメロン首相は7月13日に首相を辞任し、同日、メイが首相に就任する。英国には議会での首相指名がないから、バッキンガム宮殿でエリザベス女王が現職の首相の辞任を受理すると同時に次期首相の推薦(庶民院で過半数の支持を得られる人を推薦する慣習)を受け、次期首相候補を宮殿に招いて首相に任命することになる。9月9日まで結果が持ち越されず、このような結果になったのは、レッドサム女史の舌禍に拠る。あっけない幕引きであった。サッチャー女史以来、26年ぶりの女性首相の誕生である。

さて、彼の国のリーダー選びが一段落したところで、僕の住む東京都ではリーダー選びが本格化することになる。まだ告示前ではあるが、宇都宮健児氏、小池百合子氏、増田寛也氏、鳥越俊太郎氏などの名前が挙がっている。他にも候補表明をしている人もいるが、僕が気になる人のみを取り上げた。宇都宮健児氏は100万票を持つ男と呼ばれているが、その再挑戦となる。

保守分裂選挙となる増田氏と小池氏であるが、僕はここが一番気になっている。というのも、両者ともにイメージが先行しているように感じているからだ。

小池氏は細川護煕氏の日本新党から政治生活をスタートし、日本新党解党とともに新進党に移籍して小沢氏の側近となり、新進党解党とともに小沢氏の自由党に移籍して小渕内閣森内閣政務次官を務める。その後は小沢氏と決別して保守党に参加し、さらには保守党を離脱して保守クラブに入り、自民党に入党し、小泉政権で小泉氏の側近として環境大臣に、第一次安倍内閣防衛大臣に就任した。現在は安倍氏との仲も悪い。

政治家としては「コウモリ政治家」で権力者のそばに寄っていく印象がある。しかし、これの意味するところは非常にしたたかでしぶといということで、政治家としての面の皮の厚さがあるとともに、自らの政策を通す手段として権力者に寄り添ってきたとも言える。都知事選挙の公約を見ても、もっともはっきりと政策が見えやすいと思う。劇場型の政治家として、見せ方や構図の設定、戦略の立て方が非常に上手だと思う。

一方の増田氏は、「896の自治体が消滅する」というフレーズで名をあげた「増田レポート」で有名な人である。元岩手県知事、元総務大臣である。しかし、県知事時代には知事外交を盛んにしたが、県内主要港湾からの輸出額がゼロの年もあり問題視された。また、公共事業を漫然と拡大し赤字を招き、就任前の7000億円から12年間で1兆4000億円にまで赤字を拡大させている。知事後半では職員のリストラを敢行し、公共事業を縮小するなど赤字対策へ奔走はした。また、2011年10月、日韓グリッド接続構想を提唱し、韓国との電力融通構想を推し進めた。

総務大臣として地方分権を推し進め、東京一極集中を悪として地方への拡散を主張してきた人でもある。財政の潤沢な東京都の知事になった場合、財政赤字によって縮小へを余儀なくされた公共事業は、東京でなら際限なく行われるのか、あるいは東京から地方へという流れを主張してきた過去の経緯を考えた場合、東京の発展はどうなるのか、このあたりは不鮮明である。一度、政治資金でトラブルもしたことがあるが、地方自治地方自治体についてはプロである。

野党統一候補として鳥越俊太郎氏が出馬表明したが、民進党都議連は元経済産業省官僚の古賀茂明氏を一度は擁立したわけで、保守分裂に加えて野党分裂となるかどうかも焦点である。いづれにせよ、4度のガン手術を経験した鳥越俊太郎氏には、76才という年齢も考えれば健康不安がつきまとうし、古賀氏は過去のテレビにおける頑迷さは大人の対応としてどうかと疑問に思った記憶がある。

まだ告示まで時間があるから、マスコミで流される情報やイメージだけでなく、各候補についてWikipediaなどでしっかりと調べていく必要があるだろう。この投稿が読者の調べるきっかけとなれば幸いである。

英保守党の党首選

退院からおよそ2週間が過ぎた。最初の1週間は自宅で安静にしつつ、毎日、散歩に出かけた。9日間の入院生活だったが、思ったよりも体力が低下していた。散歩から帰宅したら、いつの間にか昼寝というのが日課になっていた。そして、今週から仕事に復帰し、滞っていた仕事をこなし始めた。昨日までは起き上がれなかったものが今日はすんなりと起き上がれるようになり、歩くと響いていたものが小走りでもなんともなくなり、日に日に回復していく人間の体のすごさを実感した。しかし、ブログは停滞していました。こちらにも復帰していきたいと思います。

さて、英国のEU離脱問題が取り沙汰されていますが、キャメロン首相が辞意を表明し、離脱交渉は次期首相に任せるとしたことから、英保守党はにわかに党首選挙へと進みました。離脱派のジョンソン前ロンドン市長が盟友ゴブ司法相の裏切りを受けて不出馬となり、そのゴブ司法相も「裏切り」のイメージから党首選から脱落し、現在、テリーザ・メイ内相とアンドレア・レッドソム・エネルギー担当閣外相という、女性候補2人の決選投票一騎打ちとなった。

どちらの候補が勝利を収めるにせよ、サッチャー元首相に次いで2人目の女性首相となる。僕の学究生活のスタートがサッチャー研究であったことからも、僕は興味を持ちつつ、今、この情勢に注意を払っている。とはいえ、日本ではあまり有名でない2人なので、今回は少し紹介をしたい。

テリーザ・メイ内相は、今のところ、優勢にある。中流階級出身で、父は牧師、自立心が人一倍強い子供であったという。生い立ちと性格的にはサッチャー元首相に非常によく似ている。警察の予算削減については、大勢の警官と面と立ち向かって妥協しないタフさを持っている。政界に入る前はイングランド銀行で働き、経済については詳しい。気難しいが優秀と評判であるが、この気難しさは信念の表れとも言える。「氷の女王」というニックネームがある。

EU離脱投票においては残留派であった。同性婚法案には賛成を投じている。英国内にいるEU移民が今後も英国内に留まれるかどうかは今後の交渉次第としている。そして、最低賃金と産休手当の完全保証を掲げている。

一方のアンドレア・レッドソム・エネルギー担当閣外相は、中央政界での歴史は浅く、6年前に議員生活をスタートさせている。新米議員であることを自覚し、優秀な人材を広く求めている。オズボーン財務相の庇護を受けて政界で活躍してきたが、EU離脱投票においてはオズボーン財務相と対立して離脱派になった。

すでに英国内にいるEU移民は今後も英国内に留まるべきと主張している。中小企業における最低賃金や産休制度は支持していない。同性婚法案への投票は棄権している。

この2人の決選投票は、9月9日である。ドイツのメルケル、合衆国のクリントン、そして英国の首相と、主要国のリーダーに女性が増えていきますねぇ(クリントンは時期尚早でしょうか)。一方で、この保守党党首選を巡るゴタゴタや米大統領選、EUのゴタゴタを見ていると、世界各地で政治家が小粒化しているように感じます。もちろん、先進民主主義国が内向き、劇場化していることが背景にありますが、これはまた投稿を改めて述べたいと思います。

Brexit(ブレグジット)問題

ここ数日、英国のEU離脱を巡る国民投票結果が話題に上っている。実は投票日当日の前後、僕は入院していたので、けっこうリアルタイムで膨大な情報にアクセスできていた。まずは情報をまとめてみよう。

もともとの不満は、「移民」に対するものである。しかし、この「移民」は少し前に話題となったシリアなどからの「難民」とは違う。同じEU加盟国から流れてくる「移民」である。この「移民」が問題となるのは、EUの理念と関係してくる。

EUの前身は欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)である。いわゆるシューマン宣言によって、戦争で用いられる兵器の製造に欠かせない2つの素材、石炭と鉄鋼に関する産業を統合することを目的とした共同体が設立されたのがきっかけである。やがて、石炭と鉄鋼に限らず、エネルギーでの協力体制(欧州原子力共同体)、関税同盟(欧州経済共同体)が設立され、この3つをもって欧州共同体(EC)となる。そして1993年、政治的統合も目指して欧州連合(EU)が設立された。二度の世界大戦を経て、戦争のない国際社会を作ろうという地域での試みであった。

この設立経緯が重要なのであるが、関税同盟から政治的統合に進む過程で、英国は欧州から一歩引いたところに居続けた。それは、Euroという統一通貨制度に参加しないという形でもっとも顕著に表れている。英国にとってはEC参加はあくまでも経済ないし貿易のための政策であって、EUという主権委譲を伴う政治的統合には常に警戒感を露わにしてきた。そして、EUは経済と貿易の観点から「ヒト・モノ・カネ」の移動を自由にした。

EU域内での「ヒト・モノ・カネ」の移動が自由になったことは経済的貿易的には効果大とするところであるが、同時に、EU域内での貧しい国から豊かな国への人口移動が起きた。また、英国は社会保障の手厚い国であるから人気は高く、ドイツと同様に「移民」の目指す先となった。しかし、その社会保障は税金で賄われる。それは直接的に英国民への税負担となって現れてくるし、仕事をより安い賃金で働く「移民」に奪われるし、本来使われるべき場所に税金が投入されずに「移民受け入れ費用」に税金が投入されるという状況を生み出した。

だから、国民投票の結果、イングランド離脱派が、スコットランドなどで残留派が主流となった結果には、一定の理由が存在すると見ることができる。ロンドンを抱えるイングランドでは、日常でそうした「不満」を肌身で感じることが多かったのであろう。比較的「被害」の小さかった地域で残留派が多かったのである。また、「移民」を得ることで利益を上げた資本家やエスタブリッシュメント(上層階級)はイングランドにおいても、もちろん残留派である。

また、報道に拠ると、英国の国民性も追い風になったとされている。これは大英帝国として世界に君臨した英国が、ブリュッセル(EU本部)の民主的ではない機構によって支配されることを是としなかったという理屈である。「国会が北京にあり、最高裁判所がソウルにあるとしたら、日本人は耐えられるか?」というのは、とある報道での英国人の喩え話である。

結果が判明するやいなや、国民投票のやり直し要求や後悔の話が伝わってくるようになった。また、英国のインターネット検索では、投票後に「離脱したらどうなる?」「離脱 影響」といった検索語が上位になっているという。離脱したらどうなるかを知らずに反対票を投じて、「あぁ、そんな大変なことになるのか!」と嘆いているという。これは、国民投票では近視眼的で感情的な結果が出たということである。目の前の「嫌なこと」にNOと叫んだだけで、「こんなことになるとは…」というところなのだろう。

国民投票に法的拘束力はないものの、主権者たる国民意思の直接表明は重い。議会制民主主義の発祥地が、直接民主主義の挑戦を受けている。直接民主主義が間接民主主義を補完するとの趣旨から、日本でも住民投票が注目を浴びるようになってきているが、今回の事例では直接民主主義のマイナス面が表に出た。今回の事例を英国がどう裁くのか、英国を中心に比較政治学を学んできた身としては、非常に高い関心を寄せている。