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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

堪え性のない社会

僕自身を含めて、最近は堪え性のない社会になったように感じる。注文してすぐに届く宅配などは、その過剰なサービスの代表的なものと思う。インターネットを通じた会話でもすぐの返事を期待したり、「既読」になったのに返事がないと精神を病み始めたり、鉄道が遅延すると公共の場でイライラを全開にしたり、駅員に食って掛かったりというシーンを見かける頻度も高くなった。

乗客の急病・転落や荷物挟まりなどで電車の遅延が発生したのは鉄道会社の責任ではないが、車掌は車内アナウンスで執拗なまでに「深いお詫び」を繰り返す。これも下手に出て対応することで、リスク回避をしているのだろう。体調がすぐれないのに電車に乗り続けたり、閉まりかけたドアに突っ込んで荷物を挟んだりという現象にもまた、堪え性のなさという原因があるのだろう。

僕の日常生活で最も感じることは、新語として造語された「ググる」である。なんでもかんでもお手軽に調べられる世の中になった。古き良き時代というような郷愁ではなく、単純に過去の話として、なにか分からないことがあれば、図書館に行って、司書の人と話しながら、ようやく目当ての情報に辿り着いたものである。その際には多く寄り道をして、思いも寄らぬ収穫を得たこともあった。しかし、「ググる」と、直線的に目当てに辿り着き、思わぬ拾いものには出合わなくなった。

この過剰なサービスについて、僕がもっとも弊害だと思うことは、人々から堪え性を奪い、即物的で刹那的な生き方が社会に広がったことである。ある意味ですごくドライな生き方であり、このことは継続して何かに取り組み続ける姿勢を奪った。算数で言えば、回答がなんであるかが大切であり、回答までの道筋(途中式)はウザったいものになっているのである。確定的な答えが確固として存在する前提で、それは何かと問い掛ける学生が増えたし、先生が言うことは「正答」なのである。

もちろん、これはすべてに言えることではない。質問者本人がある程度主体的に知っていることや自信のある事柄については、逆に批判者となって反論できる部分を探すし、答えはそれじゃないとも言う。しかし、この場合、確定的で確固たる答えを質問者自身が有しているという前提で、「間違っている答えを持つ人」に攻撃的になっているのであるから、やはり、「正しい答え」は1つであるという短絡的な思考は、先の場合と同様である。

なぜそれが正しいのか、どうしてそうなったのかと途中式を追いかけ、常に目の前にある正答を疑い続け、新しい情報・状況を勘案して修正し、というような堪えることを必要とする思考こそ大切なことだと思う。でなければ、洗脳されたり、人の意見を自らのものと誤解したり、あるいは、ある時点で思考停止になったりということになりかねない。洗脳や誤解は若い人で起こりやすく、思考停止は中高年で起こりやすい。

人々が堪えることを知らず、肥大する欲望に抗う我慢を知らず、即物的で刹那的に生きていく世の中は、文明の疲弊であり、文化の衰退である。デジタルの便利さを享受する一方で、アナログの煩雑さをも楽しめるようでなければ、豊かな精神を持つことは不可能と思う。そして、この豊かな土壌の上に教養が乗り、さらに多角的に思考が広がるのではなかろうか。あれこれと回り道をして無駄をしていくことこそ、大切にしていきたい。