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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

鳥瞰図の入手方法

頭がいいっていうのは、鳥瞰図(長期的ないし大局的なものの見方)を頭に描きだせることである。一つの事象を聞いて、他の9つのことに思考を巡らせられることである。個別具体的でバラバラな情報を有機的に総体として結びつけ、組み立てられることである。そうすると、総体としてあるべきはずのものがなければ、欠けているものを補う行動に出るから、論理の飛躍も避けることができる。

さて、ここからが問題である。上述のような「頭の良さ」は、誰もが憧れ、そうなりたいと願うものでありながら、なかなかに達成できない抽象的なものだからだ。抽象的なものは具体に落とし込まないと、行動には移れない。そして、この具体こそが「頭の良さ」を身に付ける処方箋となる。

その処方箋とは、第一に言葉、第二に知識、第三に訓練である。

「初めに言葉ありき」(新約聖書ヨハネによる福音書」の冒頭)というが、まさに人間は言葉によって認識し、言葉のないものは、たとえ目にしていても、認識できない。まさに言葉が事物の創造主なのである。「糸」しか知らなければ、ひも状のものは「糸」であるが、長繊維(フィラメント)糸と短繊維(スパン)糸を知っていれば、その観察眼は鋭くなり、用途によって使い分け始めるのである。「推察」「推量」「憶測」「推理」「推論」「推定」「忖度」などの使い分けができるか否かは、思考の精緻さに関係してくる。

次の要素として知識があるが、かつての「詰め込み教育」には一定の貢献があったものと思う。現状で「詰め込み教育」が否定されているのは、とても残念に思う。今は否定されている「詰め込み教育」の何がダメだったのかというと、一方的な押し付けと理解のない情報の暗記に陥っていたからである。知識は、理解して初めて記憶に残る。この大切な過程を踏まなければ、知識を単なる情報として捉え、暗記を強いるだけとなる。こうなると、大きな苦痛でしかない。だから、教師は「努力しろ」「頑張れ」というようになるのである。教える側にもその苦痛の大きさに自覚的だったのである。

こうした「詰め込み教育」の一番の弊害は、思考力をどんどんと破壊してしまうことだ。次から次へと知識を吸収しては、理解していないから使えないものとしてどんどん消費し尽くしていく。一問一答のように、Aは何かというようにすぐに答えを求めてしまう反射神経が身についてしまう。その過程に思考がないのである。だから、勉強や学問に面白味が生じない。理科の実験で、理屈で聞いたものがなぜそうなるのか、不思議と感じていた現象がなぜそうなるのかを目の当たりにした時の感動は、すべての学問共通のものであるはずなのに。

だから、理解することを通じて知識をどんどん吸収することこそが、思考力を高める具体的な処方箋なのである。この一連のことを「勉強」という。そして、ツールとしての道具、材料としての知識を得て、初めて思考が可能になるのだが、そうして思考することを「研究」という。

さて、ここで「勉強」と「研究」の言語的区別ができたところで、「社会勉強」という言葉を考えてみれば、現在の社会の在り方、マナー、商慣習、理不尽などを含めて、社会的な文脈での言葉遣いを身に付け、事象を知る「勉強」なのだと分かる。この時には、反抗せず、不満に思わず、そういうものなのだ、そういうことがあるのだ、と知ればよい。どうしてそうなったのかを知ればよい。これを充分に果たした時、創意工夫に基づいて新たなものを生み出せる。現在の状況と、それが出来上がった背景を知って初めて、創意工夫という思考の成り立つ余地が生まれ、たんなる思いつきでない思慮のともなったことが為せるであろう。

地に足の着いた新しいもの、定着していく新しいものは常に、その土台に過去と現在をしっかりと置いているものである。この過去と現在と未来とを含む壮大な地図こそが、鳥瞰図なのである。