学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

無縁社会は人間社会の崩壊

人間は、集団の中で生きる社会的動物である。そこには当然のごとく、役回りが存在する。群れで生活する動物においても、同じように役割を持ち、分業をして生きている。ただし、人間社会は複雑な構造を持つに至り、なかなか互いの支え合いに気付けないでいるのが現代の人間社会である。動物や原始社会のように、あるいは狭隘な村社会のようには、人々の繋がりが見えづらい世の中である。

だから、社会全体から「思いやり」が欠けてきている。知り合いが大変な目に遭っていれば助けようとか、負担を軽くできないものかと心を砕くが、そうでなければ放置する。村の寄り合い所帯でならば、こうした助け合いの精神が生きていた。昭和の初期まで遡っても、知的障害者や高齢者など、社会的弱者は社会によって保護されていた。精神病院は近代の所産である。昔はそこに収容することなどなく、村の中に存在して、共に生きていた。視覚障碍者も按摩(マッサージ師や針師)として社会で一定の役割を担っていたものである。

しかし、身近な集団に目を転じれば、そこには本来的な人間の温かみに溢れた「思いやり」が存在している。「思いやり」は絶滅したわけでも、絶滅危惧種でもない。なぜなら、本来的に人間に備わっている性質であり、自然と湧いて出てくる感情だからだ。にもかかわらず、社会全体から「思いやり」が消えてきているのは、一般に人間は実感のできない集団に想像力を働かせて「思いやり」を発揮できないからである。海外で日本人がテロに遭った、事故に遭った、ノーベル賞を受賞した、世界スポーツ大会で優勝したというような事態が起きると、日常で意識していない「日本人」が意識され、そこに思いを寄せることになる。目に見えた瞬間だからである。

そして、人々はそこでなにがしかの貢献をすることで自己のアイデンティティを確立することになる。ニートや引き籠もりの存在が危うく、時に社会に害を為すのは、そうした社会との連帯感を失っているからである。無関係な人が害を受けるが、それは無関係だからこそである。だから、社会の問題として、集団への人々の参加を形作っていかなければならないと思う。「人間は一人では生きられない」というのは、分業状態へ組み込まれているからという事情からではなく、人間の持つ精神的な構造、群れて生活するという人間の習性からである。

これだけ巨大で複雑な関係性を持つようになった人間社会では、自然な繋がりを期待することは難しい。だから、積極的に目に見える形へと努力しなくてはならないだろう。家族や会社など、自然集団においても人為集団においても、「お互いさま」の気持ちを持つことなしには成り立たないと知るべきである。集団への忠誠心、集団への貢献なしには、その集団の維持は極めて難しいものになる。家庭や会社の栄枯盛衰も、この一点にかかっている。そして、その集団の栄枯盛衰は、集団に暮らす一人の人間の栄枯盛衰でもあるのだ。