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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

人類の壮大なる実験

時事論考 政治論考

今年だけでヨーロッパに流入した難民の数は、45万人に及ぶという。この数字のすごさは比較を通してより明らかとなる。

東京都江東区の人口は23区中8位の46万人、東京都葛飾区の人口は同9位の44万人である。日本で一番人口の少ない都道府県は、鳥取県の57万人である。東京都八王子市の人口が58万人である。

こうして数字を並べてみると、ヨーロッパに流入した難民の数のすごさが分かる。しかも、この45万人という数字は、ヨーロッパ限定である。ドイツのミュンヘンには今年に入ってから9月8日までの8日間だけで3万7,000人というから、今後、ますます増えることが容易に想像できる。鳥取県や八王子市の人口に追いつくのも時間の問題かもしれない。

そして、今回の移民は、イスラム教徒であったり、アラビア語話者であったりする。宗教的にも言語的にも、ひいては文化的にもドイツとは異質な人々である。その人々が行政区を一つ形成できるほどの人数で押し寄せている。当面はこの人たちの生活を無償で支えることになるわけで、その負担たるや経済的にも精神的にも大きいことと思う。

一方で、難民問題は人道的問題であるので、人として支えなくてはならないという精神的負い目を抱え込む。しかし、現実的には税金で彼らを支えることを始め、文化的対立あるいは宗教的対立にたいする嫌気も呼び起こす。こうした葛藤の中に難民問題はある。欧州の世論調査を見ると、難民受け入れの賛否はまさに拮抗している。

そうした中、エジプトの大富豪が無人島を丸ごと買い取り、そこに「難民村」を作ろうと提案しているという。現在の欧州の難民受け入れは、遠からず許容量を超え、破綻することが見えている。だからこそ、この提案は興味深い。

たいへんに興味深い提案である。かつてない提案と言ってよい。そこで必要な施設などを難民が働いて建設し、建設された施設で難民が働き、そうして得た賃金で生活保護に頼ることなく生活していく。国家の財政負担も、難民保護期間にわたって支給するだけよりはよほど良いであろう。ある意味で「隔離」であるが、難民にとっても言葉が通じない苦労や、文化が異なることによる生活苦もなくなるだろう。くわえて言えば、その島の売却益でギリシャが大いに助かるだろう。

「隔離」というのが悪く響くかもしれないが、東日本大震災の後の被災地住民の避難においても、その住民に対する嫌がらせやイジメが各地で発生したことを考えると、同質的なものに対してすら、排他的で外来への拒絶反応があるわけで、良い意味での「隔離」は双方にとって益のあることのように思う。

しかし、この問題の難点が一つだけある。それは、日本のことわざで言えば、「軒を貸して母屋を取られる」ことが発生する懸念だ。このことわざは、一部を貸したばかりに全部を取られることを喩えたもので、恩を仇で返されるといった意味にも使われる。僕はどうやら性善説には立っていないようであるが、彼らが永住し、さまざまな権利を要求し、最後には独立国として運動を起こすようであってはならないと思う。それは領土領海の減少を意味するし、イタリアやギリシャの漁民は非常に困る状況になるだろう。

欧州の人々の善意に支えられた人道的援助が、国内に新たな紛争の種を蒔くようなことになってはならない。あくまでも「一時的」であり、「お客さん」であるという「ご厄介に預かっている」意識を難民は失ってはならない。もちろん、人道的に保護される権利を有するし、そのこと自体が脅かされてはならない。国を追われる事態に至ったことは、彼らの責任ではない。

でも、それもこれも、受け入れ先の国内が安定し、財政的にも余力があればこそできるものだということを忘れてはならない。我が物顔で権利を主張し、押し掛け、助けろとばかり要求してはならず、自立する道を模索しなければならない。この意味で、エジプト人富豪の提案は興味深いのである。援助しつつ、自立した生活を送れるようなプログラムだからである。だから、将来的にも当該国民としての権利要求や行政区への格上げ、独立などには絶対に道を開かないという確約した制度設計の下で、この提案を実施してみてほしいと思う。

実験という言葉を使うのは不適切かもしれないが、実験の許されない社会科学の分野においては、1990年代以降、だいたい1500万人で推移している難民にたいする処方箋は、人類の壮大な実験であるように思う。