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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

知の源泉としての哲学

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この画像は、とある本屋さんの一角である。「哲学」という言葉が面と向かってタイトルにある本が多いことに驚く。少し前には「哲学」は難解で、なんとも近寄りがたいものとして敬遠されてきたように思う。せいぜいがビジネス書として誰かの「人生哲学」とかいった類いのものだったように思う。いわゆる学術的な哲学は、口にする人も「やっかいな人物」という印象があったように思う。それが「哲学」を前面に打ち出し、さらには噛み砕いたポップなものとして、類似本が数多く出版されていることに驚きを禁じ得なかった。

最近の出版界は、二匹目のドジョウ戦術で、一つ何かがヒットすれば類似品が次から次へと出てくる。2015年前半までは学術的色彩が強いが、2015年後半からはポップなものが相次いでいる。出版不況と言われている割には、出版される本の数自体は増えているのである。それらが売れていないというだけの話であり、購入者が拡散してしまって一冊あたりの売れ行きも伸びきれないという次第である。だから、「哲学」を面と向かって謳っていても、一般読者が、出版されているほどの哲学本を求めているというわけではない。

とはいえ、一定程度には人々が「哲学」を求めているということではある。哲学は「愛智学」と直訳される。Philo(愛する)と sophy(智恵)の合成語である。こういうところからすると、人々は、知っていれば済むだけの「知識」ではなく、「知識」を活用する「智恵」を求めていると言い換えることもできるだろう。「知性」が今ほど求められている時はないのかもしれない。

しかし、これらの書物が、噛み砕いて分かりやすくかつての哲学者の主張を伝えてくれたとしても、それを「知識」として蓄積するだけでは、「知性」の源泉とするのには意味がない。「哲学」は知のフレームワークとして活用しなければ意味がない。「7つの習慣」などの書物と同じく、書かれていることを実生活の中で活かして初めて意味が出てくる。この意味で、今、多く出版されている本は、それほどの貢献をすることなく、一時的なブームで終わるのではないかと思う。

学術の世界では、「理論と実践」というものが重要視される。理論だけでは頭でっかちになるだけだし、実践だけでは要領が悪い。理論と実践は車の両輪である。片方だけではうまく走らない。「哲学」は考える枠組みを提供するものだから、どれか一冊、取り組みやすいものを購入して、そこから響いたものをいくつか取り出して、日常生活の中に取り入れていくことがいいだろう。10冊を読んで何も手にしないよりも、1冊を読んで、その20%でも実践に繋がったほうが有益である。