学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

個の尊重の行き着く先

夫婦別姓違憲でないという判決を最高裁が出した。僕はこの結果を目にした時、ホッとした。語弊を恐れずに言えば、まともな感覚の結果だと認識している。両性の尊重というのは、法律上は為されているわけで、結婚後に実際には夫の姓氏を名乗るのが95%とはいえ、婿入りなど女性の姓氏を名乗ることも法律上は許しているのだから、女性差別には当たらない。むしろ社会問題なのだとも言えよう。

原告団の主張には僕は矛盾を感じている。女性の側の姓氏を名乗りたい、残したいという根拠に、自らのアイデンティティを持ち込んでいる。一人娘ならばなおさら、家名が断絶してしまう、と。きわめて保守的な「お家」の思想である。しかし、その女性の姓氏は父親のものであって、母親のものではない。一代遡れば意味不明な主張である。それに、一部の報道によれば、子どもを妊娠すると婚姻届を出し、生まれると離婚届を出して旧姓に戻っていたという。普通ではない。

もっとも、現代でも結婚は「太郎と花子の結婚」ではなく、「山田家と田中家の結婚」であって、式場での案内もそうなっている。結婚とは、個が結びつくので はなく、家と家とが結びつくものなのであって、そもそも親族を含めた集団を形成していくわけであるのだから、個の論理よりも集団の論理が優先されてしかる べきである。それがイヤなら事実婚でも内縁関係でも同棲でもすればいいだけの話だ。それこそ、個の話である。もちろん、その場合、シングル・マザーとして社会という共同体の世話になることは避けてもらいたい。

この問題は、従来型の伝統的な家族の在り方、言ってみれば社会の在り方に疑問を投げかけているのだ。もともとは姓氏を共にして族集団を形成し、共同体を形成していたのが家制度である。また、子どもと名乗りが異なれば、その家族関係は複雑になるわけで、両親が別姓であれば、子どものアイデンティティはどうなるのであろうか。自分は誰の子どもだと子どもに認識させようというのか。

この原告団は、母親というよりも女性である。家族の一員というよりも個人である。他の何よりも自分の都合を優先させようとする我が儘にさえ映る。だからこそ、社会の在り方の問題なのである。共同体や集団の都合よりも「私」という個の主張である。僕自身は共同体や集団から離れての個の存在は無意味だと思うし、個は他の個への配慮、ある種の妥協を伴うものだと思っている。こういう視点を持っているからこそ、今回のような主張を奇異なものに感じてしまうのだ。

僕はかつて授業の中で、極端な話、試験管の中で工場よろしく大量生産し、子どもはすべて施設に預けて社会全体でその費用を賄えばいいというところに行き着くと述べたことがある。これで少子化は解消されるし、家庭ごとの教育格差も生まれない。しかし、こうした発想には非人道的で人間らしさがないという批判を受けた。その通りである。きわめて合理的な解決法だが、そこには血も涙もないのである。

物事を考えるときには、制約や条件を考えて現実的にするよりも、極論に走ってしまえと教えている。そうすれば、その主張がどこでおかしいかが分かる。あるいは、極論まで行くと、なぜ躊躇が生まれるのかが分かる。そこを修正してやることで現実的な提案にしていくのだ、と。思考実験はこうした過程を経るほうがいい。

両親が異なる姓氏を名乗り、個としての主張の下に生きていくならば、個の尊重の行き着く先に血と涙の存在しない世界が見えた。そういう世の中は嫌だと思ったので、今回の判決にホッと胸をなでおろした次第である。とはいえ、こうした裁判が行なわれるということは、個の尊重を良しとする現代にあって、家制度や家族の在り方を含めた社会の変革期にはあるのだと思う。