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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

性格の受容

ある集団の中における個人を見ていると、ふと気づくことがある。その人には持って生まれた役回りがあるのだなぁ、と。

いい年をした大人ばかりが集まった会社組織の中でも、この人は小中高時代のクラスでも、こんなんだったんだろうなぁと容易に想像ができてしまうのである。「3つ子の魂百まで(幼い頃の性格は、年をとっても変わらない)」という言葉があるが、まさにその通りである。指導的立場の人、影の薄い人、ムードメーカー、いじめっ子にいじめられっ子など、児童・生徒時代の面影を引きづってそこにいる。大人の顔をした子供がそこにいるのである。

実際に自分自身を振り返ってみると、学校や部活動、ゼミ、サークル、バイト先、職場などで、結局は同じように扱われ、同じような立場に立ち、同じように暮らしていることに気付くのではないだろうか。これが性格に由来するものだとするなら、性格はなかなか変えがたい難儀なものである。

このことは多くの類似表現があり、洋の東西を問わず存在していることからも、真実なのだろうと思う。「頭禿げても浮気はやまぬ」「産屋の風邪は一生つく」「産屋の癖は八十まで治らぬ」「漆剥げても生地は剥げぬ」「噛む馬はしまいまで噛む」「子供は大人の父親」「雀百まで踊り忘れず」「痩せは治るが人癖は治らぬ」「病は治るが癖は治らぬ 」に加えて、"The leopard cannot change his spots.(ヒョウは斑点を変えることはできない)"、"The child is father of the man.(子供は大人の父)" である。

時折、集団の中でどう立ち居振る舞ったらよいか分からなくなる時がある。あるいは、新しい集団に属した時、どのように溶け込んでいくか迷う時がある。しかし、思い煩うことはない。なるようになるからである。「大学デビュー」と称して高校時代までの自分と異なる自分を演出したつもりが、卒業するころには高校時代までの立ち位置に戻ってきているものである。

にも関わらず、人は自らの性格を把握できず、自らを規定できない。だから悩みも生まれる。性格を変えようとせず、性格を作ろうとせず、その性格に向き合う必要がある。望みは尽きないけれども、人生も会社経営も、与えられた条件や環境の下で考えていかなければうまくいかないのである。高望みをしてもうまくいかない。なぜなら、高望みは現実を見ていない、ないし現状認識が甘い、ないし現実への観察が足りないということだからだ。自分の性格に向き合い、それを利用し、活用してこそ、夢の実現が可能になるものだと思う。

こういう長所があれば成功する。こういう性格ならうまくいくと考えて行動しても、成功もうまくいくこともないだろう。それはないものねだりだからだ。自分の性格とは、与えられた条件である。大都会の商業地にあれば商売は成功すると、片田舎の駅前商店街が夢想しても、意味を為さないことは誰にも分かる。しかし、これが性格の問題となり、人生設計や自己実現という段になると、このことを忘れてしまう人が多い。自らの性格を知り、長所を生かして短所を補う方向性を見出していかなければならない。自らの性格を拒否して改造を図るよりも、自らの性格を受容してうまく折り合いをつけたほうが、物事は軌道に乗ると思う。