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学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

読書をめぐる考察

哲学思想

町の本屋が消えている。「本屋が町に一つもない」という市町村は全自治体の約2割にあたる330自治体に及ぶ。大型書店の進出だけでなく、ネット書店やネット・メディアの充実もあって、品揃えに負ける町の本屋は衰退の一途にある。本屋を訪れる趣味のある僕にとっては残念なことである。かく言う僕も、今は近隣の本屋ではなく、電車とバスに乗り継ぐ必要のある大型書店を訪れるようになった。かつては行かなかった場所である。

若者が本を読まないとは、老熟年層から出るお決まりの非難である。そう言う人に、「では、若者に勧める本を10冊あげてみて」と頼むと、たいていは言葉に詰まる。で、どうにか口にする書物は、自分たちが若いときに捻り鉢巻きで取り組んだ難解な古典なのである。当人たちも当代の本は読んでいなかったりする。要は自分たちがした苦労を今の若者がしていなくて、くわえて、それに敬意を払ってくれない無礼に怒っているだけなのだ。

明治・大正・昭和の「教養人」たちが読んだ古典で、今も読まねばならないような書物がどれほどあるというのだろうか。当時の時代背景や文脈で意味のあったものも、現代では色褪せていたり、現代の解釈でより進んだものもあるし、それを概要で済ませて後代の研究に拠ったほうが良いものも多い。1950年代後半に16~17%だった大学進学率(2014年は53.9%)の中でのエリート意識に染まった彼らが、知的虚栄心の赴くままに「古典や名著を読んだ」という実績作りのために読んだに過ぎない側面もあったろう。

それよりも、そうした老熟年を含め、若者がこれを読まなければ損だと思うほどの魅力ある書物を作り出せない現代社会の疲弊のほうが問題である。学問で言えばそれだけの明晰な分析のあるもの、文学で言えば豊かな語彙を駆使して人間社会の常識を培うようなものを生み出せない現代社会の疲弊である。実は、出版タイトル自体は増えているのだ。批判を承知で極言すれば、質の悪い書物がバンバン出版され、数撃てば当たる戦略で、その中からたまにベスト・セラーが出てくる。そんな状況である。

人々は現実の生活の中にあってロマンを探そうとする生き物である。自分は何者であるのか、自分の存在理由は何か、「本当の自分」はどこにいるのか、絶えず自分自身にロマンを与えずにはおれない。しかし、生活のリアリティは、いつもこの自分の中のもう一人の自分を無化する。人々はさまざまな「物語」やロマン的幻想によって絶えずこれに抗うが、日常生活の現実はまた、絶えずこの幻想を相対化する。だから、書物を欲するのだ。

人々は頭を空白にしているのではない。常に頭の空白を埋めてくれる何かを期待している。その証拠として、ロマンを与えてくれない状況の出版業界やテレビから離れていっている現実があるのだ。現在、その穴埋めに尽瘁しているのは、おもにネット・メディアであるが、これも玉石混交の状態であり、情報量の多さに圧倒され、振り回されることも珍しくない。

だから、僕は大型書店を訪れ、圧倒的な情報量の中を漂流して、石の中の玉を見つけようとする。少なくとも、僕自身が誰かにお勧めの本を尋ねられて当代の良書を挙げられるようにと願って、書店内を散策するのである。ネット書店では目的を持った本探しには有益だが、散策をしてふと出会う本探しには向いていない。