学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

仏の話に耳を傾けよ

まぁ、なんというか、宗教家は世俗のことに口出ししないほうがいいと思う。宗教の世界に生きていれば「いい話」をする人で終わるのだろうが、政治の話を「法話」として語ってくるのであれば、それは仏教への冒涜であるように感じる。世俗の話として、この「法話」を騙った記事に反論してみよう。

憲法9条を放棄して戦争ができるようにするなんて、馬鹿なことだ。

いつどこで誰が憲法9条を放棄したのだろうか。現在もなお、憲法9条による縛りは強力に働いている。もし本当に憲法9条が放棄されたと安保関連法案を読み解いているのだとすれば、馬鹿なことだと思う。「戦争法案」というようなレッテル張りを真に受けて本文を読んでいないのだとすれば、人を集めてしていい話ではない。扇動である。

安倍さんは自分の名前を後世に残したい、そればっかりで、民の心を考えていない。自分のことは忘れて、民がどういうことを求めているか察し、その望みをかなえてやるのがいい政治家。安倍さんは民意をちっとも聞こうとしない。今のままでは戦争になる。安倍さんが行けばいい。

賛成派の人も多くいることを忘れないでいただきたい。「私の意見」が民意ではない。民意とは選挙の結果である。直近の選挙でマニフェストにも記載したし、公約としても述べてきている。その選挙で自民党は大勝し、その公約を果たしただけの話だ。選挙の時に争点となっていなかったというのは、マスコミ側の問題であり、また、公表されたマニュフェストなどをきちんと読んで調べなかった人の側にある。少なくとも僕について言えば、マニュフェストを読み、集団的自衛権の必要性を感じ、投票し、そして今、民意が反映されたとの思いでいる。

今のままでは戦争になるというが、戦争というのは相手がいるものだ。日本にその気がなくても向こうから来てしまえば避けられない事態となろう。その時に日本が孤軍奮闘で国民の生命と財産を守れるだけの用意があるだろうか。戦争にしない、あるいは最悪のケースでも国民の生命と財産を守るためには、集団的自衛をしたほうがよほど守れると思う。なお、ここで自衛と言っているのは、憲法9条がしっかりと生きているからに他ならない。戦争をするわけでも拡大するわけでもない。

(学生団体「SEALDs(シールズ)」の)彼らは『これからが勝負。今度の選挙で勝負をつけよう』と言っている。今の国会議員は私たちが選んだ人。(国会議員を)選ぶ時には気をつけなければ。

分かっているんではないですか。おっしゃる通り、選挙の結果が民意である。選挙の際には自ら調べたり考えたりして慎重になるべきだろう。まったく同意である。としたら、直近の選挙結果による国会の決定に対し、敬意を払い、尊重することこそが民主主義において重要ではないだろうか。

ところで、この尼僧は、自ら打ち明けた内容によると、夫の教え子と不倫し、夫と3歳の長女を残し、家を出た経験があるそうである。職業は小説家であったが、ポルノ小説と批判されるようなもので、自身の2度目の不倫も題材に扱っている。「本当のね、恋の醍醐味は不倫ですよ」と公共の場で言ったこともあるそうだ。こうした経緯から、修道女を志すも教会から拒否され、出家を志して多くの寺院にあたるも拒否されていたが、1973年にようやく天台宗で受け入れられ、尼僧になったという経歴を持つ。

少なくとも僕は、道徳心や倫理観がおぼつかないような人から「ありがたい法話」を聞く気にはなれない。そうした人が他人への説教などもってのほかという価値観を僕は持つ。出家をしたことが夫や娘への罪滅ぼしとか贖罪の気持ちからであるなら、静かに仏の話に耳を傾けて、自らを振り返り、仏道に精進しているべきではなかろうか。世俗のことに身を投じ、「法話」と称して政治運動をするようであれば、世俗からの批判も受けてしかるべきことと思う。もっとも、ここでの僕の批判は、他でしてきたようなものとまったく同じ論調であり、宗教家だからという偏見や特別視はしていない。

ついでに言えば、芸能人が政治の話をすることにも違和感を覚える。芸能人はその芸をもって身を立てているのであり、それであげた知名度などを利用して公共の電波を用いて政治活動をするのは控えるべきではなかろうか。人々はその芸を支持しているのであって、その思想を支持しているわけではないのだから。ファンはその芸事に対してファンなのであり、その人格への無条件の支持をしているわけではない。