学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

ニュース難民

ここ数年の僕は、ニュース番組に飢えている。新聞やラジオから「ニュース番組」が絶滅した。

平日朝7時~9時は、出社する準備をしながらテレビを、出社する電車の中でラジオを視聴しているのだが、「ニュース」がないのだ。代わりに何をしているかといえば、バラエティ色豊かな「特集」。つまり、報道番組ではなく情報番組なのだ。

僕が子供の頃は朝の8時半を過ぎるとワイド・ショーが始まり、そちらで特集は扱われていたように思う。つまり、通勤・通学が一段落した後の主婦のための番組である。NHKだって朝の8時15分から連続テレビ小説で、それまではニュースだった。今はNHKドキュメンタリーの一部を放送し、続きや詳細は今夜放送される番組でご覧下さいという、まるで番組宣伝である。

ニュース番組の司会者がワイド・ショー的顔ぶれなのだから、ニュース番組を騙るのはやめてほしい。ワイド・ショーの合間にニュースを挟む程度だ。夕方のニュースも同じ傾向にある。過去には6時からニュースだったが、今は4時すぎから2時間近くも情報番組を流している。しかも、横並びにどこの局でも、だ。ラジオも、だ。

淡々とニュース・キャスターがニュースを読み上げ、コメンテーターが解説を加えるというシンプルなニュース番組がなぜ存在できないのだろう。多くの番組ではニュース・キャスターがコメントを出すなど、中立性が疑わしくさせている。ニュースという事実を伝える人は、解釈をしてはならず、解釈をするコメンテーターは立場・所属を明らかにする。たったこれだけでいいのに。製作費もかかるまい。

近年、テレビ離れとか視聴率の低下が人々の耳目を集めるようになった。つまりはテレビやラジオの「中の人」が視聴者のニーズを把握できていないということだが、ニュース番組の絶滅状態は、「中の人」が視聴者を「大衆」として扱い、低俗な番組構成を視聴者が喜ぶと誤解しているように感じる。しかし、もっとも低俗なのは「中の人」自身なのだ。

これと同じことは新聞にも言える。今や朝日新聞をはじめ、多くの新聞がその信用を落としている。それは事実を伝えるニュース媒体としての価値を貶め、主義主張の混じった記事を配信しているからである。社説は好きにすればいい。新聞社の色だろうから。しかし、通常記事の中に「判断」を交え、購読者の意思を操ろうとするかのような書き方には違和感を覚える。詐欺紛いの手法ではなかろうか。これも購読者を「流されやすい大衆」と見ているからのように思える。

インターネットの発達により、ニュース・ソースにも一般人からの情報やSNS、動画サイトが取り入れられるようになったが、テレビ・ラジオや新聞がインターネット情報の追随をしているようでは困る。確かに、速報性や現場の情報で、なにも加工されていない一般人からの情報にはいいものも含まれている。しかし、インターネット情報には裏付けや責任がない。嘘情報や人々を騙そうというようなガセネタも多い。

だからこそ、報道機関が裏付けを行ない、取材を通して社名を明らかにして責任を負うような「確かな記事」に価値がある。お金を払う対価として取材力や検証力が担保されていなければならない。取材源の秘匿を隠れ蓑に不確かな裏付けの取れない記事を配信するようなことがあってはならない。この取材力や検証力こそがジャーナリストの生命線である。

そうしたジャーナリスト魂の込められたニュース番組、ニュース記事に飢えを感じ始めた昨今である。