学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

AIのつくる未来

今月初頭、人工知能(AI)分野の人材育成を進めるため、文部科学省は今秋、全ての大学でAIの基礎を学ぶことができるよう全国共通のカリキュラム(教育課程)を作成すると発表した。ビッグデータ活用を学ぶ大学の事例などを参考に文系、理系の枠を超えた教育内容とし、早ければ来春から一部大学で先行実施する予定だ。将来的には、毎年、全大学の1学年全員にあたる約50万人の学生がAIを学習する体制を目指す方針である。また、2020年にセンター試験に変わって実施される大学入学共通テストに、文系理系に関係なくプログラミングなどの情報科目が導入されるようだ。

基本的学力が「読み・書き・そろばん(算数)」に加えて「プログラミング」ないし「人工知能の基礎」としていよいよ認識されてきたと言えそうだ。オクスフォード大学のオズボーン氏が「消える職業と新しい職業」と表していたものとして、「データマーケター」とか「データサイエンテスト」というような職業も生まれてきた。これらはマーケティングへの理解を大本としつつも、ビッグデータや統計、プログラミングなどへの理解を基礎としている。

最近、文系の僕自身にもこうした情報技術に関する仕事が増えてきて、理系文系を問わないAIという時代の波を感じる日々である。そこで、少しばかりデータ・マーケティングをかじったところで、ふと感じたことがある。データ・マーケティングビッグデータを徹底的に分析して消費者の趣向や行動を予測し、先回りして購買を促そうという仕組みである。

身の回りのものを見てみると、なるほど、どの会社もよくデータ・マーケティングをしていると思わせられる。データ分析を通して「もっとも売れるもの」を形作るから、どこも似たり寄ったりの製品で溢れている。車を例にとっても、トヨタらしさ、日産らしさ、ホンダらしさ、ダイハツらしさ、スズキらしさがなくなっており、車にあまり興味のない人からすると、区別するのが難しい。スマートフォンしかり、洋服しかりである。どの製品をとっても、あるメーカーらしい奇抜さや独特さが消えて、皆、マイルドである。

これは何も造形物に限らない。たとえば、テレビ番組でも同じだろう。どこのチャンネルに合わせても、似たような番組編成や番組企画である。こちらは視聴率というデータに基づいている。

「売れる!」ということが唯一のモノサシとして闊歩し、売れなくても「売りつける」というような事態まで横行しているように思う。これはもちろん、少子化による人口減少で、黙っていても一定数の「顧客」を確保できた昔と違って、「購買者」を奪い合う様相を呈しているからであろう。このことは利潤追求の企業に止まらず、地方自治体でも同様だ。減少する人口を前にあれこれと政策を打ち出して、パイの小さくなった人口を奪い合って地方活性化としている。

いろいろなところがユニバーサル・デザインになり、コモデティ化が進み、「面白味」や「野心的」な要素が薄まってしまった。これに対応するのが「ニッチ」だが、そこまで「特殊」へ軸を行かずとも、もう少し「個性」を出してもいいように思う。そう、「個性的」な要素を感じられない世の中になってしまったような、「薄味」なのである。一方で、YouTubeで流行るものは「個性的」である。

小学生のなりたい職業が「YouTuber」という結果もあるが、「薄味」に物足りなくなった人々が「個性」を求めているのかもしれない。ざっとの観察でしかないが、YouTuberは「自分のやりたいこと」をやっている。個性的なのである。そして、その発信者は個人であり、ビッグデータ分析はしていない。だから、時に「炎上」もするのであろう。

何事においてもバランスは重要であるが、今の世の中、データ化が進んで画一的になってきた。皮肉にも、多様性を謳うということが画一的に為されている。「多様性の尊重」というところに誰も反対せず、画一的な価値観となっている。本当の意味で多様性が存在するようになり、個性が出て、それぞれが色彩を放つようになればいいのになぁと思う。

令和元年5月14日配信の記事について

2点ほど追記しておく必要性を感じた。

1つめは日本維新の会丸山穂高衆議院議員に関することである。この件に関して、あくまでも僕は「言論の自由」を封殺してはならないという意味で、「極端思考」を受容しようということであり、丸山議員の議員たる資質や資格を云々するつもりはない。後から出てきた周辺の情報からすると、酔った上で常識的ではない言動をしたらしいが、この点について擁護しているわけではない。

議員辞職勧告案も検討されていると聞くが、これが発言内容そのものについてであったなら、擁護したいと思うが、発言時にまつわる諸言動を含めてのものであるなら、それについては知らないからコメントはない。ただ、「戦争という手段」を議論の俎上に挙げたというだけの理由であるなら、言論の府が何を言うかと思う。もちろん、議場の中での正当な発言(ヤジなどではないもの)であるなら咎められるべきではないことははっきりしているが、議場の外での出来事であり、また、外交的にも島民にとっても重要な局面だったということも考慮しないといけないだろう。我々国民が選んだ議員であるのだから、その進退は慎重に考えるべきである。

2つめは、かわぐちかいじの「空母いぶき」が実写映画化される件について、続報によると原作が歪められているとのことだ。総理大臣の持病を揶揄した卑劣な改竄ばかりでなく、原作で明確に「中国」となっているところを「国籍不明の軍事勢力」としている。これでは「ドキュメンタリー性」や「シミュレーション性」が失われている。この2点だけで鑑賞する気が失せてしまった。人を誘って見に行こうかと思っていたほどの期待作が、残念な結果である。原作のコミックのほうを読み直して我慢しようと思う。

昨日の投稿で扱った話題で、その後の続報により誤解を生まないよう、以上のことを追記しておきたい。

思考実験は非現実的でよい

北方四島の「ビザなし交流」の訪問団に参加した日本維新の会丸山穂高衆議院議員は訪問団のメンバーに「戦争で島を取り返すことには賛成か反対か」などと質問したことについて13日夜、「不適切だった」としてみずからの発言を撤回し、謝罪しました。(NHKニュース

こうした失言報道には、いくつかの種類があると思う。まずは発言者の潜在意識にある「差別意識」や「旧態依然」が表に出てしまったパターンである。これについては、僕は「自然にあるがまま受け入れよ」「きれいごとだけの世の中にするな」と思っている。もちろん、このパターンでの失言に非難をすることはよい。しかし、それで本人が気づいて謝罪すれば終わりという程度に捉えている。いつまでもしがみついて問題視することはない。「臭いものに蓋」をしていても、「臭いもの」の存在は消えない。むしろ、水面下に潜らせて存在を見えなくさせてしまう方が問題である。人間は感情の生き物であることが根本であり、思ってしまったことは仕方ない。ただ、社会生活上で問題があるので、指摘し、気づいて謝罪で済む話だと思っている。もちろん、「失言」という言葉だけの問題ではなく、「行動」にまで移ってしまっていたならば糾弾して然るべきである。

「失言」のもう一つのパターンだが、これは「思考実験」的なものだ。たとえば、「北方領土は戦争なくして取り戻せないのか」という問い掛け自体はなんの問題もないと思う。これが「戦争」という表現にアレルギー反応を起こし、議論そのものを排除するならば、そのほうが問題であると思う。テレビであるコメンテーターが「憲法に書いてある戦争の出来ない国で戦争をしないと取り戻せないと発言することは、国会議員の資格がない。憲法で禁じられていることを論じる意味はない」と評していたが、そんなことはないと思う。むしろ、現実的に必要で憲法や法律がそぐわないならば、国民の生命と財産を守るという国家の第一目的を果たすために、必要ならば憲法や法律を変える最初の仕事を果たすのが国会議員であるからだ。「憲法や法律で禁止しているが、その禁止は妥当か」という議論自体はあって然るべきものだ。

「考える」際には極論は必須である。たとえば、今、たまたま「資本主義民主主義国家」が成り立っているが、これは必然ではなく、そもそも成り立っていること自体が不思議な出来事だというような捉え方をしない限り、体制の改善や改革はなされないだろう。必然であるならば放置しておけばよい。腐敗するのも崩れ去るのも、そこから何か別のものが生じてくるのも、必然である。そうではないからこそ、手を尽くす余地が存在しているのだ。地震が来るかもしれないから対策を講じるわけだし、極論まで考えないから想定外が出てくる。自動車事故でも「ありえないような事故」が起きると想定したところまで安全装備が配されるのである。「死ぬ」という言葉にアレルギーを起こして、事故が起きて人が死ぬなんて不謹慎なことを考えるなとすれば、エアバックすら開発されなかったであろう。

今般、かわぐちかいじの「空母いぶき」が実写映画化される。自衛隊を扱ったものは過去にも多くあった。戦国自衛隊ゴジラとの戦いなど「ファンタジー」であった。しかし、「空母いぶき」はこうした過去の自衛隊ストーリーとは異なり、きわめてドキュメンタリーに近い。映画の中の出来事は、現実的には「起こりそうもない現実」であると同時に、「起こるかもしれない現実」でもある。映画の中では「戦争をしないために戦う」というギリギリの選択がどこなのかを問い掛けてくる。ただ「戦争をしない」では済まない厳しい現実が仮定されている。戦争をせずに戦闘で止めるための必死の攻防戦である。

こうしたことを突きつけられて、初めて思考が始まる。防災と同じく、想定は普段からしておく必要がある。この「極論」が舞台の映画は、見終えた人々にさまざまなことを考えさせるのではなかろうか。この映画を戦争映画だとか戦争礼賛と受け止めて非難するようであれば、それは思考停止である。「ありえない」ことを映像化してくれているのだから、今回はより具体的に想像し、より具体的に思考が始まるだろう。

さて、ここで冒頭に戻る。「北方領土は戦争なしには取り戻せないのか」という問い掛けは、あって然るべき問い掛けである。ただし、酔った勢いに任せて絡み酒というような不真面目な態度であったことは非難に値する。僕が問題にしているのは、その報道におけるコメントの在り方である。むしろ、マスコミは謝罪があったと済ませ、実際にはどうやったら取り戻せるのか、戦争という外交手段も排除しないで考えていこうという姿勢で北方領土を取り上げ、国民的議論にまで昇華させなければならない。国民的議論を呼んでこそマス・コミュニケーション(集団・大衆でのコミュニケーション)であろう。

日本が戦争という手段を採らないとしているのは、日本の個別事情である。世界的には関係ない話だ。外交は相手があって初めて成立する。その相手の手札に戦争がある以上、戦争を度外視は出来ない。日本がしない、受けないといっても、相手が手段として押しつけてくることもあるからだ。その場合、どうするのか、戦争にまで発展させずに戦闘で終えるべく知力を尽くそうということを「思考実験」で想定訓練することは、必須ではなかろうか。アレルギー反応を起こして「戦争」に関わる議論すら封殺してしまうことは、そのまま知力の低下を意味すると僕は思う。

安定的な皇位の継承について

元号も「令和」に改まり、剣璽等承継の儀や即位後朝見の儀などの即位に伴う一連の儀式も始まった。テレビで映像を見ていると、天皇陛下の脇侍として、秋篠宮文仁親王殿下、常陸宮正仁親王殿下のお二人しかおられなかった。昭和から平成への御代代わりでは6人が揃っていたことからすると、どこかしら寂しいものを感じてしまった。いよいよ皇位継承の安定性に視覚的にも危機感を覚えるようになってきた。

ここで女性天皇ないし女系天皇に関する議論が活発化してきた。「女性」なのか「女系」なのかについての違いはしきりにメディアで耳にするようになり、一般的な理解も進んできたように感じる。戦後の「象徴天皇」の地位は、憲法により「日本国民の総意」に基づくので、その「総意」が奈辺にありやと議論を進めていくことはよいことであろうと思う。そこで、当ブログに「総意」形成への影響力がないことは百も承知でありながらも、果敢にこの議論に参加したいと思う。

まず、21世紀にあって男系男子に限るのは時代錯誤であり、男女平等であるべきという議論について、そうであるあらば男女平等に限らず、職業選択の自由、居住転居の自由、投票や立候補に関する選挙権、学問の自由(政治系は学ばないよう調整してきた)、表現の自由ストライキなどを含む労働権はもちろん、働き方改革を含めた「就業時間や就業規則」、「定年」や「残業規制」もきちんと認めなければならない。男女平等に並ぶ基本的人権である。

男女平等論から皇位の継承を語る場合には、他の基本的人権も同時に語らなければならないと思うし、語らないならば、なぜ他の人権を排除するかについての合理的説明が必要である。そして、僕個人としては、男女平等論から話を進める場合、やがては他の人権が俎上に昇る日も来るだろうと思うので、この論調での「女性」ないし「女系」の即位は、天皇制の崩壊に容易に繋がるだろうと思う。

ここで、「女性」か「女系」かという議論になれば、「女性天皇」には控えめに賛成であるが、「女系天皇」には反対である。控えめに賛成というのは、男系男子が未成年あるいはなんらかの不都合がある場合に限って即位できるという意味で、皇位継承順位は男系男子の次になる。現状でいえば、秋篠宮文仁親王殿下、悠仁親王殿下、常陸宮正仁親王殿下に続いて愛子内親王殿下、眞子内親王殿下、佳子内親王殿下、三笠宮系の2女王、高円宮系の1女王である。

「男系女性天皇」の子どもを即位させてあげたいというのは人の情というものだと思うが、こと皇位に限っては割り切って考えるべきと思う。これは「皇位」というそのものが「歴史的堆積物」だからである。21世紀の考え方を安易に持ち込んではならず、あくまでも「文化財保存」の観点から語るべきと思うからだ。たとえば、姫路城を鉄筋コンクリートで頑丈に作り、石垣を護岸工事のコンクリートのようなもので堅め、エスカレーターやエレベーターを取り付け、安全性やバリアフリーに配慮した建築物に補修した場合、果たしてそれは世界遺産ないし文化財と言えるであろうかということと同じである。国宝、重要文化財、重要有形民俗文化財特別史跡名勝天然記念物または史跡名勝天然記念物は、建築基準法の枠外にある(建築基準法第3条第1項第1号)のと同じ理屈が、「皇室」にも適用されるものと思う。

そもそも「皇位」というものが歴史的遺物であり、男女平等以前に人は平等という近代社会の理念から外れているのである。これは、憲法を見ても明らかで、憲法前近代的なものと近代とを苦心の末に融合させていると思う。すなわち、第1章で天皇について記述し、第3章で国民について記述している。国民について定義する前にまず天皇について定義し、これを国民から外しているのである。だから、皇室の人権は著しい制限が可能になっている。ここに国民が持つ基本的人権のうち、「男女平等」だけを入れることがどれだけ不合理か分かろうというものである。

過去の例を見れば、皇后(正妻)の産んだ子が天皇になることのほうが少なく、側室が産んだ子どもが天皇に即位した例も多いわけで、安定的に男系男子誕生を図るには、1人の女性(皇后・正妻)だけでは、女性の負担も大きく、不都合であろう。とはいえ、一夫多妻制にすれば国民の理解が得られず、国民との乖離を引き起こし、国民の総意による皇室の存在は危うくなるだろう。側室制度を「人倫に悖る」と評した昭和天皇のご遺志に加えて、「不倫」が社会的に非難される現代にあって、これは採るべき選択ではない。そこで、21世紀の技術との融合である。

人工授精による皇嗣の誕生を試みることはどうであろうか。皇室が率先して不妊治療に先鞭を付けることは、不妊に悩む人々に大きな光を与えることにならないだろうか。おそらくは、皇室がやるとなれば人工授精技術の飛躍的な向上が望めるであろうし、費用も安くなるだろうし、社会的なハードルも低くなることだろう。人口減少社会にあって精子バンクが拡充し、シングルマザーを支える制度も充実していけばよい。それこそ「伝統的」な「自然妊娠が良い」と唱える「男女平等論者」は支離滅裂だし、男系男子にこだわる保守派にとっても問題はない。

四方丸く収まる案だと思うのだが、いかがだろうか。

ぼんやりとした世界

『大人の対応力』(齋藤孝 著)が売れている。職場や友人関係などの人間関係に悩む人向けに「質の良い大人」という「社会人らしい生き方」を伝授してくれるらしい。新時代に必読の「教科書」らしい。いわく、「ユーモアを持つ」、「グレーゾーンを残す」、「一喜一憂しない」、「他人を変えようとしない」、「むやみに人間関係に傷を付けない」ということらしい。

書籍の中身自体についてとやかく論評するつもりはない。しかし、こうした書籍が売れるということは、こうしたことに対する需要がある、少なくとも手に取ってみようと思うほどには人々の琴線に触れるということである。人間関係の悩みというのは、古今東西を問わず、また老若男女も問わない。しかし、その解答はやはり時代を映し出すように感じる。

ユーモアは会話の潤滑油として重宝されるが、それにも「皮肉ユーモア」から「ほっこりユーモア」まで多種存在するが、この書籍に並ぶ文言から察するに、「ほっこりするユーモア」こそが求められているのだろう。「むやみに人間関係に傷を付けない」ユーモアなわけだから、優しいユーモアである。

「グレーゾーンを残す」のも「むやみに人間関係に傷を付けない」ために必要な「遊び」の部分である。人間関係に「一喜一憂しない」ことは、疑心暗鬼に陥らないためでもあるし、不要な追求をして相手を責めたりすることを引き起こさないことだから、これもやはり「むやみに人間関係に傷を付けない」ということだ。そして、独善的な正義を振りかざしたり、自分の思うように相手をコントロール下に置こうとするなどして「他人を変えよう」と介入することは不要な摩擦を生むわけで、ここでもやはり「むやみに人間関係に傷を付けない」ということである。

つまり、「大人の対応力」とは、「むやみに人間関係に傷を付けない」ための具体的な所作を学ぶということに集約されてくるようだ。僕はこれを「希薄な人間関係」と思う。職場や社会での人間関係というビジネスに割り切ったとしても寂寥を感じるが、友人に対してもこれというのでは、「大人らしさ」とは、極端に言えば「人間らしさ」を捨てることと同義のようにすら思えてくる。

軋轢を生むかも知れないが、相手のことを真摯に思えばダメなことはダメと相手に進言することもあるだろうし、だからこそ、そうした直言がよかったかどうか一喜一憂するであろうし、進言するからには誤解を招かないようにグレーゾーンはないほうが望ましい。むろん、そうした時にもユーモア精神を発揮できる程度にはリラックスした雰囲気でいたい。これはしんどいかもしれないし、しがらみを生むかもしれない。けれども、それ以上の信頼関係を育めるとも思うのである。

だから、本書でいうようなものは、薄く広いビジネス界、職場、取引先で有効と思う。こうしたところでの遣り取りにグレーゾーンは残すほうがよいし、一喜一憂することはないし、相手を変えようなどと傲慢なことは考えずともよい。希薄な関係でなんの問題もないからだ。しかし、職場でも自分の所属する場所ではやや濃くして、友人関係などにおいては、もっと濃くしてもよいと思う。濃淡の問題であって、読者が本書で学んで「あらゆる人間関係への処方箋」として欲しくはないなぁと感じた。

こうした人間関係をうまくコントロールできないというのは、公私の別が希薄になった時代背景があるのではないかと拝察する。ビジネス相手や職場でも「ぶっちゃけトーク」が展開され、「私」がビジネスに持ち込まれた「一昔前」があり、人々が人間関係に疲れてしまった感がある。振り子が反対のベクトルに向いたわけであるが、どっちというのではなく、濃淡で考えるべき問題のように思う。濃いほうに「私」があり、淡いほうに「ビジネス」があればよい。

職場で鬱になってしまう場合、多少なりとも「私」でビジネス社会に接し、しかし「私」の社会ではないから歪んでしまったのではないだろうか。歪みが生じたから、歪みの原因である「私」をビジネス社会から駆逐しようというのは分かるが、本書広告の帯などで「友人関係」までをも含んでしまったことが残念でならない。

「大人の対応力」を持って人間関係を希薄にし、ぼんやりとさせることで心の安寧は訪れないと思う。いざというときに対立や軋轢を生むような「暑苦しい」「重たい」「うざったい」関係も必要であろう。心の叫びを明確にし、一喜一憂する気持ちを理解され、だからこそ、あれこれと口を出して介入してくるような存在がなければ、人は真の交流など持ちようがないと思う。そして、この打ち解けた厄介な友人こそ、逆説的だが、安寧をもたらしてくれるのだと思う。

プロや職人の衰退は社会の衰退

本職に任せる」とか「本職にはかなわない」というような表現がありますが、これはそれを専門とする人、玄人(くろうと)の取り組みにはかなわないという意味である。本来的には「本職」とは「その人がおもに従事する職業」であるが、上述したような表現の中には、玄人に対する尊敬の念が含まれているように思う。というのも、そこまでの域に達するためには、多くの経験値を得てきたであろうし、血の滲むような努力を重ねてきたであろうという、プロセスへの敬意があるからである。

だから、「本職」には、ちょっとやってみただけの素人程度、あるいは「おもに従事する」に値しないレベルの取り組み程度では敵わないだけの「専門性」や「高度な技量」がある。僕はこのことを指して、従来、「プロフェッショナル」とか「職人」という表現を用いてきた。そして、こうした表現は、「医者」や「弁護士」などの資格職ではないものにたいしてこそ有益だと思っている。というのも、資格という、第三者による客観的な証明が存在しない「プロフェッショナル」や「職人」の分野があると思っているからだ。

これは自明であろう。「素人がちょっと手術をしてみたが、やはり本職には敵わない」という恐ろしい状況は、前提としてすら存在しないからだ。したがって、こうした表現は、素人でも手を出せる分野で有効となる。たとえば、「教育」はまさにそうだ。もちろん、「教職」という資格職ではあるが、「教育」自体は家庭でも職場でもどこにでも広く見られ、かつ、資格職でない「教授者」が存在する。同じ延長線上でいえば、「助言者」や「相談相手」もこれに当てはまる。

自らに顧みれば、「先生」と呼ばれるのに相応しいかという自問自答は常にある。おこがましくも「先生」と名乗るのであれば、少なくとも「先生」に相応しいだけのものを身に付けていなければならない。こうなると、当該分野について「よく知っている」ことはもちろん、「よく実行できる技能」も併せ持たなければならない。こうした意識で20年やっていると、周囲からようやく「本職には敵わない」といってもらえるような場面も出てきた。そして、こうなってくると、自らの職業にこだわりやら譲れない原則やらが生まれてくる。そう、「職人」は頑固なのだ。

このことは「先生」に限らない。営業マンであれ事務員であれ技術員であれ、自分の職掌内容について、ひとかどの一家言を持ち、こだわりやら信条やらを形成するものだと思う。どんな職業であれ、そのプロフェッショナルや職人は存在する。いや、していなくてはならない。先輩や同僚、後輩を含め、「負けない」というだけの存在になるべく、努力をすべきだと僕は思っている。でなければ、取引を含めた買い物なんて出来なくなる。商売は相手への信頼があってこそ成り立つ。魚屋の目利きが悪いとか魚が腐っていたとかであれば、その魚屋は廃業するしかない。売る魚についても、その保存方法についても、他より秀でていれば、その魚屋は繁盛する。

しかし、最近、こうした「名称」に対する詐欺的行為を目にすることが多くなった。新卒新入社員で半年もすれば「コンサルタント」を名乗る。勤続年数を重ねたという理由だけで、配属先が変わったばかりの人物に「上級コンサルタント」が付与される。「コンサルタント」は字義通りならば「相談員」なので、AとBのどちらの商品を選ぶか悩んで店員に「相談」すれば、店員は確かに「家電コンサルタント」であり「コーヒーコンサルタント」である。しかし、従来、「コンサルタント」といえば、隣接する業界情報までを含めて熟知し、出回る商品の観点別優劣を見定め、客の要望にマッチングさせるだけの、きわめて高度で専門的な職業内容だったはずである。

安易に名乗りを上げることは、その職業の尊厳を傷つける。現状を知れば、いまや「コンサルタント」になんの価値も見いだせまい。いや、「コンサルタント」はあくまで例であって、銀行員、保険外交員、証券マンであっても、それだけの専門性や高度さは失われている。金融緩和により、銀行でも保険や証券を扱い、もはや専門性は失われている。たんに「銀行」と呼ばれているところで働いている「素人」でしかない。

もちろん、絶滅危惧種とはいえ、銀行でもどこでも「プロフェッショナル」な人や「職人」は存在している。しかし、こうした「プロフェッショナル」や「職人」の少ない社会は衰退の一途を辿る。継承が行なわれず、組織は経年劣化していくしかないからだ。いきなりの固有名詞で恐縮だが、今のホンダに本田技研創設の頃のような情熱的な技術者(単なるサラリーマンではない技術者)がどれだけいるだろうか。ソニーは?パナソニックは?東芝は?メガバンクは?

僕はこうした思いで教え子に接している。だから、1人でも多く、教え子の中に「プロフェッショナル」や「職人」を作りたい。自分自身が職業名を貶めるような仕事をしていないか、常に反省をしつつ、より頑固になっていきたいと思う。

新元号 解題

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元号

早速にも練習をしてみました。「令」の字はなんともバランスの取り方が難しい。「和」のほうはいくぶん慣れている字でした。二番煎じ、三番煎じになることを覚悟の上で、改元を記念して備忘録として1つ記事を投稿しておきたい。

初春の令月(れいげつ)にして、気、淑(よ)く、風、和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かおら)す

初春の佳き月、空気は美しく風も和やかで、梅は鏡の前で化粧をする(おしろいをはたく:フェイスパウダーをつける)ように白く咲き、蘭は腰帯に付けた玉器のように香っている

手始めに、時の宰相による説明を附しておこう。

 この「令和」には人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております。万葉集は1200年あまり前に編纂された日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく防人や農民まで幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。

 悠久の歴史と香り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく、厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人びとりの日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、「令和」に決定致しました。

万葉集という歌集の位置付けを通して「令和」の背景を描き、まさに万葉集におけるのと同じように多様な階層の人々が集い、そこで生まれた文化が伝統的となるほどに長く保存され育ってきたという想いを乗せたという。さらには、出典となった歌の背景が「梅花の歌三十二首」の序文からとなっているが、ここに「梅の花」がある。ここで総理談話の「厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花」の比喩が生きてくる。ここに四季折々の変化を読み込み、さきほどの多様性に裏打ちされた「1人びとり」の一輪が大きく花開き、その総体としての日本の姿を描いている。なんとも壮大である。

多様性はダイバーシティとして東京都を始め、多くの政策の中で注目されているし、新学習指導要領の中でも謳われている「21世紀の教育」が要請されている要素でもある。きわめて現代的な文脈とも合致する願いである。

また、「梅の花」に注目をすれば、その花言葉は「不屈の精神」あるいは「高潔(心が気高く清らかなこと)」である。デフレの日本にあって、不撓不屈の精神は必要不可欠の精神の在り方であり、道徳の荒廃が指摘されるようになった日本にあって、「高潔」は地域コミュニティ再生の鍵でもあろう。更に一つ一つ見れば、紅梅の花言葉は「優美」、白梅の花言葉は「気品」である。ここに文化の香りを感じるのは僕だけではないだろう。「多様な梅の花」の個性の総体として「全体としての梅の花」がある。

そして、「梅の花」は次代天皇となる皇太子徳仁親王殿下のお誕生日である2月に美しく咲く花でもある。「令和」と共に歩まれる次代天皇に相応しい元号ではないだろうか。名前はこうなって欲しいとの願いを込めて付けられる。親が子に託す想いの象徴でもある。「令和」という名前に込められた壮大な想いを忘れることなく、僕もまだまだ次代で花を咲かせようと思う。

ちなみに、これまでをちょっと振り返って、今回の記事を終えることにする。

「平成」は、『書経』の「地平天成」で「地、平(たいら)かに、天が成る」からで「国の内外、天地とも平和が達成される」ようにとの願いを込めた。

「昭和」は、『書経』の「百姓昭明、協和萬邦」で「百姓(ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す」からで、「 国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う」ものであった。

「大正」は、『易経』の「大亨(だいこう)は以って正天の道なり」からで、「天が民の言葉を嘉納(進言などを高位の者が喜んで聞き入れること)し、政が正しく行なわれる」ようにとの願いを込めた。

「明治」は、『易経』の「聖人、南面して天下を聴き、明に嚮(むか)ひて治む」からで、「聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まる」という意味が込められていた。