学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

ぼんやりとした世界

『大人の対応力』(齋藤孝 著)が売れている。職場や友人関係などの人間関係に悩む人向けに「質の良い大人」という「社会人らしい生き方」を伝授してくれるらしい。新時代に必読の「教科書」らしい。いわく、「ユーモアを持つ」、「グレーゾーンを残す」、「一喜一憂しない」、「他人を変えようとしない」、「むやみに人間関係に傷を付けない」ということらしい。

書籍の中身自体についてとやかく論評するつもりはない。しかし、こうした書籍が売れるということは、こうしたことに対する需要がある、少なくとも手に取ってみようと思うほどには人々の琴線に触れるということである。人間関係の悩みというのは、古今東西を問わず、また老若男女も問わない。しかし、その解答はやはり時代を映し出すように感じる。

ユーモアは会話の潤滑油として重宝されるが、それにも「皮肉ユーモア」から「ほっこりユーモア」まで多種存在するが、この書籍に並ぶ文言から察するに、「ほっこりするユーモア」こそが求められているのだろう。「むやみに人間関係に傷を付けない」ユーモアなわけだから、優しいユーモアである。

「グレーゾーンを残す」のも「むやみに人間関係に傷を付けない」ために必要な「遊び」の部分である。人間関係に「一喜一憂しない」ことは、疑心暗鬼に陥らないためでもあるし、不要な追求をして相手を責めたりすることを引き起こさないことだから、これもやはり「むやみに人間関係に傷を付けない」ということだ。そして、独善的な正義を振りかざしたり、自分の思うように相手をコントロール下に置こうとするなどして「他人を変えよう」と介入することは不要な摩擦を生むわけで、ここでもやはり「むやみに人間関係に傷を付けない」ということである。

つまり、「大人の対応力」とは、「むやみに人間関係に傷を付けない」ための具体的な所作を学ぶということに集約されてくるようだ。僕はこれを「希薄な人間関係」と思う。職場や社会での人間関係というビジネスに割り切ったとしても寂寥を感じるが、友人に対してもこれというのでは、「大人らしさ」とは、極端に言えば「人間らしさ」を捨てることと同義のようにすら思えてくる。

軋轢を生むかも知れないが、相手のことを真摯に思えばダメなことはダメと相手に進言することもあるだろうし、だからこそ、そうした直言がよかったかどうか一喜一憂するであろうし、進言するからには誤解を招かないようにグレーゾーンはないほうが望ましい。むろん、そうした時にもユーモア精神を発揮できる程度にはリラックスした雰囲気でいたい。これはしんどいかもしれないし、しがらみを生むかもしれない。けれども、それ以上の信頼関係を育めるとも思うのである。

だから、本書でいうようなものは、薄く広いビジネス界、職場、取引先で有効と思う。こうしたところでの遣り取りにグレーゾーンは残すほうがよいし、一喜一憂することはないし、相手を変えようなどと傲慢なことは考えずともよい。希薄な関係でなんの問題もないからだ。しかし、職場でも自分の所属する場所ではやや濃くして、友人関係などにおいては、もっと濃くしてもよいと思う。濃淡の問題であって、読者が本書で学んで「あらゆる人間関係への処方箋」として欲しくはないなぁと感じた。

こうした人間関係をうまくコントロールできないというのは、公私の別が希薄になった時代背景があるのではないかと拝察する。ビジネス相手や職場でも「ぶっちゃけトーク」が展開され、「私」がビジネスに持ち込まれた「一昔前」があり、人々が人間関係に疲れてしまった感がある。振り子が反対のベクトルに向いたわけであるが、どっちというのではなく、濃淡で考えるべき問題のように思う。濃いほうに「私」があり、淡いほうに「ビジネス」があればよい。

職場で鬱になってしまう場合、多少なりとも「私」でビジネス社会に接し、しかし「私」の社会ではないから歪んでしまったのではないだろうか。歪みが生じたから、歪みの原因である「私」をビジネス社会から駆逐しようというのは分かるが、本書広告の帯などで「友人関係」までをも含んでしまったことが残念でならない。

「大人の対応力」を持って人間関係を希薄にし、ぼんやりとさせることで心の安寧は訪れないと思う。いざというときに対立や軋轢を生むような「暑苦しい」「重たい」「うざったい」関係も必要であろう。心の叫びを明確にし、一喜一憂する気持ちを理解され、だからこそ、あれこれと口を出して介入してくるような存在がなければ、人は真の交流など持ちようがないと思う。そして、この打ち解けた厄介な友人こそ、逆説的だが、安寧をもたらしてくれるのだと思う。