学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

「老害」を考える

老害」と一発で変換されたことにも驚くが、ウェブでその意味を引くと、「自分が老いたのに気づかず(気をとめず)、まわりの若手の活躍を妨げて生ずる害悪」と出てくる。当初は耳慣れない言葉であったが、その「害悪」が表面化・顕著化するにつれ、おそらくは一般的に広く使われるようになってきたのであろう。そこで今回は「老害」なるものを考えてみようと思う。

当初、僕は老境にさしかかる前に自らは「老害」にはなるまいと意識したことを覚えている。そこで、どうしたらよいかという葛藤が始まったのである。若手を理解せず、その邪魔になることが「老害」とされるならば、若者におもねって若者に賛同し、若者と共に行動していけばいいのだろうか。いや、それでは単に若者に迎合しているだけであって、若者をスポイルして(人間としてダメにして)しまいかねない。時には厳しい助言や指導は必須であろう。憚りながら、そういう職に就いているし、そういう経験も積んできたと自負している。

そこで、考え事の常。反対概念を考えてみる。「老益」である。儒教からの影響により、そもそも長老や元老といった考え方が昔から日本にあるが、これは西洋とて同じである。経験を積み、落ち着き、大局観をもって大所高所より物事を見ることのできる老人は重宝されてきた。これが「上から目線」と批判されることになったのだろうが、おそらくは「上から目線」の中身には、大所高所に含まれている「偏見や私情を捨てた広い視野」が欠けていると判断されたからであろうと思う。

もう一つは、時代の流れが加速し、時代の変化のスピードが飛躍的に上がったからだと思う。「俺が若い頃には…」「俺の時には…」「俺はこうやって来た」というような「経験」が時代の変化の速度に対応し切れていないから、「今はもう違う」とか頑迷な時代懐古に陥っていると判断されるのであろう。こうなれば老人は過去の時代に偏り、偏見の塊となる。だから、今の時代の「害悪」でしかなくなる。

となれば、老人も最先端を学べば良い。最先端を理解するのに過去に築いてきたものと融合させ、それをどう見るか、どう捉えるか、どう判断するかという具合にしていけば良いのだと思う。ただただ最先端をというのではなく、抽象概念で今昔を比較検討し、時にはブレーキをかけることもあろうし、時にはアクセルを踏むこともあろう。それこそが「老益」となる「大所高所」からの助言・叱咤激励になる。だから、なにがなんでも賛成とはならず、若者におもねて迎合することもなくなる。

だから、老人も常に学ばなくてはならない。これには若者以上の気力が必要となる。なんせ若者のように体力がないからだ。体力がない分、気力と知力(経験値)で補わなければならない。新しいことに対する「学び」においては若者と同じ一線である。時代の変化のスピードが上がったことで、老人には隠遁として余生を過ごすことが許されなくなった。それまでの経歴に胡座をかいて助言や叱咤激励をしていれば良い時代は過ぎた。老人も若者と同じく第一戦で戦い続けなければならなくなった。

こうした老人であれば、若者はこれを「老害」とは呼ばないであろう。共に戦う仲間である。しかし、老人側から見れば酷な世界である。また、昔ながらの長老や元老を敬うという世界観が崩壊しているから、自分は長老や元老を敬ってきたのに自分の時には長老や元老といった概念が消えているのだから。価値観の変遷に追いつくのも精一杯であるように思う。とはいえ、定年が75歳まで延長されようとし、リカレント(学び直し)学習が実施され始め、「人生100年時代」とばかりにマルチステージ(終身雇用で1つの生き方ではなく、複数の生き方)をせよという時代の要請にあっては、そうならなければ社会的に「老害」になってしまう。

50の手習いではないが、何か新しいものに常に挑戦し続けなくてはならない。さて、問題はその原動力をどこから得てくるかである。これは1人1人に課せられた宿題である。