学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

世代間で継承されていくもの

一昨日の記事昨日の記事は、ともに人物重視についての内容であったが、結局のところ、僕は何が「人物」なのかについて明言していない。当然、どう伸ばすか育てるかという議論も為されていない。今日の記事ではこのあたりについて述べてみたいと思う。

「ありていに言えば」とか「包み隠さずに本音で言えば」という意味で使われている「ぶっちゃけ」という言葉は、2000年代に入ってから頻繁に使われるようになってきた。平成という時代になってからは、「ぶっちゃけ(本音)」てしまうことが誠実であり、美徳になったのであるが、一方でその対極にある「取り繕うこと(建前)」が悪になり、人の気持ちを「忖度」することが悪になったということでもある。

婉曲的で遠回しな表現は迂遠とされ、直接的で露骨な表現のほうが好まれるようになった結果、人の気持ちを察したり、空気を読んだり、行間を読んだり、言葉の発せられた意味を推し量ったりする能力が徐々に失われていった。くだけたカジュアルな表現が好まれ、改まったフォーマルな表現は人々の苦手とするところとなった感がある。改まったフォーマルな表現は物々しく、事務的で冷たい響きすら感じられる表現と認識されるようである。

しかし、少し前なら「KY」、今なら、差別語にたいする配慮が足りないとの批判を承知で敢えて載せるが、「ガイジ」「アスペ」と批判するように、人の気持ちを察せられなかったり、空気を読めなかったりすることへの「抵抗感」は根強く存在しているのである。これは、今でも開会式、閉会式、入学式、卒業式、成人式、結婚式、葬式というように、改まった場が社会から完全には消えていないからであろう。ぶっちゃけた状態だけではダメで、改まった場所がある以上、そこにふさわしいものが必要だということでもある。

改まった場所に共通する言葉は「式」であるが、これは律令制にまで起源を遡る「細則」、つまり実施する上での細かなルールのことを意味する。正式には「律令格式」と言われるもので、おおまかには「律令」は法律、「格式」は実施の際の具体的な判例といったところである。「格」も「式」も細かな取り決めであり、決められたものが共通して彼我に認識されていれば、改まった場所での言動に困ることはない。卒業式で証書は右手から差し出すとか結婚式での三三九度のやり方とか、決まっていれば、あとは流れに沿ってこなすだけである。

そして、問題はここからであるが、実は日常にもそのような「格式」がある。具体的には客先ではチャイムを鳴らす前にコートを脱ぐとか、手土産は個包装のものを選び、かつ日持ちしないものは避けるとか、靴を脱いで玄関先に上がってから体の向きを変えて靴を揃えるとか、好意や物を受け取ったらお礼を言うとか、およそ「式」ではない日常にもマナーというように名を変えた「式」が存在する。こうしたマナーをきちんとこなせる人は育ちが良いと評され、そうでなければ「礼儀がなっていない」と白眼視される。

つまりは、家庭教育である。日常の中に「改まった場」とそうでない場を持っている人こそ、こうした格式、マナー、礼儀を持てるのであり、こうしたものを備えている人が人の気持ちを忖度し、行間を読めるのである。そして、正式なものを知っているからこそ、それを崩したときに親しみを感じたり出来るのである。普段から崩れているのであれば、さらに崩すとなればそれは無礼になるし、場の空気も何もかも壊すことになる。

親しき仲にも礼儀ありと言うが、これは無礼を咎める言葉ではない。偶然に会ったときや手紙や電話などで簡易的に言うとしても、さらに「改めてお礼に伺います」とか「改めてお詫びに伺います」という「礼儀」、改まったものが親しき仲にも必要であるということである。この代表例がお中元やお歳暮である。昔の暦で言えば、半年が区切りである(6月最終日と12月最終日に大祓をする)。その区切りのところで、お世話になった人に「改まって礼をする」習慣がお中元やお歳暮なのである。感謝していることなど知っている、その都度ちゃんと礼を伝えていると考えて疎かにしてはならないという意味である。

蛇足で言えば、年賀状も同じである。年が改まったところで、改めて旧年中の交誼に感謝を伝え、これからもよろしくと挨拶を入れるのである。大晦日から元日へ日が改まったところを境目にして、人々が居住まいを正し、「あけましておめでとう。今年もよろしく」との挨拶を遣り取りすることは、ぶっちゃけていない。また、正式を知るからこそ「あけおめ。ことよろ!」が親しいと認識されるのである。それでも、挨拶をしないということにはなっていない。決まり文句で中身もなく、儀礼的で事務的であるにもかかわらず、形式だから意味がないとはなっていない。これはある意味で元日が1年に1回限りの非日常であるが故に、ぶっちゃけが美徳という風潮の時代においても残っているのかも知れない。

こうしたものは、種々様々な場面で細かくあるわけで、その日常性は枚挙にいとまがないくらいに存在する。これを礼儀作法やマナーの本で学んだところで限界はある。あくまでも一部でしかないし、状況に応じて、相手や場の格や間柄などに応じて、絶妙にアレンジされるものだから、杓子定規にするものでもない。これはもう経験値の領域である。なぜ同じことをするのにAさんちとBさんちとで異なるのかを知ることで伝わっていくものである。

さて、人物論の話をすると始めてまったく無関係な話題が続いたと怪訝な思いをされていると思うが、僕の考えている「人物」は、上述してきたような人間関係の機微を知っている人である。こうしたところは試験で計れるようなものでないが、人物重視をする際には欠かせない要素である。人間は社会的動物であり、集団生活を営む動物であるのだから、その中で「人物たる」とするには、試験で計れるような「能力」だけでは決してない。人たらしと言われた豊臣秀吉田中角栄、そして昨日の松下翁も、こうしたところに機敏であったろうと思う。

そして、こうしたものは書物で学ぶものではなく、日常を共にする先達から細かく、そして口うるさく学ばされるものである。こうした継承を繰り返していくことで、さらに洗練されたものになっていくであろう。マナーは確固とした固定物ではなく、変幻自在に変わるものである。マナーを規格化した時点で、たとえば書物などで規定した時点で、それは場に応じた変化の出来ない固定的なものになってしまう。マナーをゴリ押しすることはマナー違反であるというディレンマを引き起こすだけだ。これが僕が人物試験に反対する理由である。試験にしろ書物にしろ、規定することの限界を知った上で試験や書物を活用する運用をしなくてはならないと思う。