学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

新しい時代へ

新年、あけましておめでとう。今年もよろしくお願いします。

「平成最後の~」というフレーズ、ほんと、メディアは好きですね。この数週間で何度聞いたことか。ちなみに、通常時であれば、メディアは「初の~」が好きですね。ひどい時には「※※を除けばこれが初めて」とか、初回に何か特別な条件を設定して、その設定外では初めてであるとの報道が為される。ということで、今年初めての投稿にまいります。

平成の30年間を振り返る番組が相次ぎましたが、それを見ていて、「失われた10年」と「ロストジェネレーション」からの「失われた20年」へと経済的停滞を経験したことが想起された。これに関連して、2002年~2010年までの「ゆとり教育」や2011年以降の「脱ゆとり教育」に至るまでの個の尊重と多様性の尊重という教育方針に眼が転じた。

いわゆる「詰め込み教育」と言われた知識偏重型が改められ、調べ学習などの能動的で発信型の教育が推進された。この方向性は間違っていないが、OECD学力調査などで学力の低下が顕著に見られ、理念の実現手段に問題があるとされ、削られた学習時間の一部が戻りつつ、「生きる力」を養うと似たような方向性で「脱ゆとり教育」が再出発した。

そして、「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」の導入やプログラミング教育の充実が企図された新指導要領が、中学校では2021年度から、高等学校では2022年度から実施される予定である(一部は、たとえば高等学校で今年から前倒し実施もある)。アクティブ・ラーニングもプログラミングも、21世紀という新しい時代を「生きる力」であるとされている。

では、2002年よりも前の時代は何だったのか。経済的にはバブル崩壊、政治的には冷戦の終結という分水嶺によって区切られる時代であるが、教育方針で見れば、それは画一的で考えることを要しない時代であったと判断できよう。すなわち、大量生産をする工場労働者、そして大量消費という同指向的な購買意欲を持つ大衆である。マニュアルに沿って規則正しく正確に作業が出来るように教育し、大衆車に始まって高級車へ、賃貸アパートから始まって一軒家へというような上昇志向的消費行動をする画一的価値観を共有する大衆の創出である。

これは、経済的には高度経済成長から続く緩やかな右肩上がりの経済と、政治的には東西イデオロギー対立による行動の選択肢が限定された(つまりは考えなくてもよい)社会の2つに支えられていた。この2つの支柱を1990年頃に失い、そこから新たな時代を迎えたのである。その世界は画一性から脱却した多様性に富む社会であった。つまりは、自由な世界の出現である。

自由というものは、しかし同時に厄介なもので、個々人がそれぞれの価値観で振る舞うし、また個々人がそれぞれ状況を把握して行動を選択していく必要が出てくる。だから能動的で発信できる人材が必要になってくるわけだが、個の尊重と多様性への対応から、集合的な社会を維持するために「主体的で対話的」な項目を追加することになった。これが学習指導要領の変遷の背景であると思う。

もちろん、社会人のほうもこれと無縁ではなく、こうした社会的変遷を受けて、公務員にも社員にも、いわゆる「人物重視」なる採用試験が定着してくるのである。前例を踏襲して何も考えなくても人口が増加する時代または業績が伸びていく時代が終わったからである。能動的・主体的に考え、取り組み、発信していく人材がなければ、大企業といえども破綻していく時代になったのである。考えなくてもできるマニュアル仕事はAIにどんどん奪われていくから、労働者の側も勤め先のことを自分のこととして捉え、AIにできないことを提供していかなければならない時代となった。

とはいえ、これは昔からあったことで、目新しいことではない。いわゆる「エリート(層)教育」は昔から人物重視教育であったし、考えられる人間の育成であった。たとえば、江戸時代までの家業を継いでいく、いわば考えなくてもよい状態から、明治維新職業選択の自由へと舵を切ったときのことを考えれば自明である。明治維新を支えたエリートたちは画一的で考えなくても済むような人々ではなかった。今日の投稿記事の内容は「大衆教育」について言えることなのである。大衆教育が「読み・書き・そろばん」という基礎を終え、徐々に大衆教育がエリート教育に近づいていっているのである。

落ち着いて考えてみれば、今日の大衆教育を受けた人物は、江戸時代や明治初期の頃でいえば、かなりのエリートである。当時の人々が歴史や国語古典、数学、生物、化学などの現代大衆教育の教科書知識を持っていただろうかと問えば自明であろう。つまりは、エリート層教育の実践がいよいよ大衆レベルまでになったということを意味している。あるいはエリートが大衆といえるまでに増殖したと表現することも出来るだろう。

だから、最先端の「新しい時代を生きる力」を構成する「対話を通じて多角的に考え、能動的・主体的に行動し、発信していく力」は、過去を見ればいくらでもサンプルが存在している。近年の人物重視の傾向は今に始まったことではない。そして、人が人たる所以、「一角の人物」と目されるような状態を作り上げることこそ、これからの新しい時代で活躍する要であるのだ。これこそAIになしえないところである。マニュアル行動ではなく、鍛え上げた精神を備えなくてはならない。

こういう1年にしていきたいと願う。といったところで、今年の抱負ですね。今回の投稿をしていて、1つ、気になったところが出てきたので、それはまた次回のお披露目ということで。