学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

文章は書くのではなく書かれるものである

聞いた話で恐縮だが、英国の幼稚園で騒いでいた園児を静かにさせようと、若い先生が「静かにしなさい!」と叫ぶ。すると、園児たちはそれに負けないくらい大きな声になって騒いだ。そこにベテランの先生が現れ、園児たちに向かって「レイディーズ・アンド・ジェントルメン!」と呼び掛けたら園児たちは一瞬で静かになったという。

似たような話は日本にもある。「静かにしなさい!」と大きな声で言えばさらに大きな声を出して園児たちは騒ぎ続ける。先生と園児たちの双方の大きな声で教室はカオスに包まれる。そこで一工夫。ある先生が「顔をこっちに向けて!」と言う。みんなの顔が揃うまで声をかける。園児は何事かと目を向ける。そして「お手々は体の横!」と次の指示を出し、みんなの手が体の横に付いたら最後に「お口はチャーック!」と言う。すると園児たちは静かになったという。

この話は何かと言えば、「静かにする」という抽象的な表現に対する園児たちの理解が及ばなかった例である。英国の園児にとって紳士淑女の振る舞いは具体的なものとして把握されている。日本の園児にとっても、顔を向ける、手を体の横につける、口を閉じるという指示は具体的なものとして把握されているということだ。

理解は概念がきちんと把握されることで成立するものである。そして、行動は理解が及んでから成立するものである。概念なき理解はなく、理解なき行動はない。これは一連の動作である。「概念→理解→行動」である。概念と理解は精神の働きであり、目に見えるものではないから、心理学などは表象に生じた行動から精神の働きを見ようとする。つまり、心理学は矢印を逆方向に辿る特殊な行程である。とはいえ、精神の働きは日常では無意識の領域にあり、それを探るとなると本人でもよく分からないというのが普通であろう。

だから、これを解き明かしていくと「分かった!」となるし、事件などで動機を探るのが必要なのも、この「分かった!」を求めてのことである。猟奇的な事件が訳も分からないままに起きたというよりも、異常な精神状態ではあっても犯人なりの道筋が立っていれば気持ち悪さや薄気味悪さは半減する。逆に分からないままであれば気持ち悪さや薄気味悪さは増幅する。

おおよそアウトプットするということは、他者にとって不明な部分を明快に説明しうるということであって、それが口頭であろうと文面であろうと同じである。ただ、口頭での場合には相手の表情を見ながら情報を小出しにして説明を省略しうる。しかし、文面の場合には、予め相手の理解が及ばないところを補わなければならない。冒頭の例を引き合いに出せば、園児に向かって「静謐を保て!」という指示は、園児という対象を見失っているナンセンスな指示である。ここまで極論を言えば納得するものを、「静かにして」が通じないことは意外と気がつかない。

これは、自分が「静かにする」ということを日常語で誰にでも通用する言葉と認識しているから起きることである。つまり、その言葉の伝達先を考えているのではなく、その言葉の発信元を考えているのである。これでは「分かりにくさ」を生んでしまう。「静か」というのがどういう状態で、その状態のことを園児にどう伝えようかと考えれば、自ずと答えに達するというものである。つまり、「自分の理解→概念化→相手の理解→伝達」という流れを踏む必要があるということだ。

ここで冒頭で登場した日本の先生の話に戻る。その先生にとって「静か」とは単に音がしないという状態ではなく、動きのない状態で、かつ、先生のほうへ意識・注意を向けるという状態を意味していたと考えられる。音は立てないがそっぽを向いていたり、あるいは絵本を読んでいたり折り紙を折っていたりするような「静かな状態」は、先生が求めていた「静かな状態」ではないだろう。「静かにする」という日常の簡単な言葉であっても、異なる状態が存在するのである。「静かにしなさい」と呼び掛けて園児たちがそれぞれ本を読み始めたり寝始めたりしたら、先生は再び怒りの青筋を立てることになるのが容易に想像できるが、これは先生のほうのミスである。

ここでようやく今回の記事のタイトルであるが、「文章を書く」ということは、自分が伝えたいと思っている内容を精密に概念化し、その概念を読ませる相手を考えて再び具体化するということである。どんなメッセージを伝えたいのか、その文章を読む相手はどのような思想や考え方をもっているのか、その文章を読んだ相手がどのようなイメージを抱くのか、そうしたことを考えて「文章は書かれる」のである。だから、書く前の推敲が大事になってくる。

最後に、「書く文章」が存在していることにも触れておこうと思う。ズバリ、日記である。これは垂れ流しでかまわない。日記の効用は、ある程度の日付が過ぎれば、自分というものが見えてくることにある。あるいは、自分を振り返る材料になる。日記は「読んでもらう」ことを想定していない特殊な文章であるから、「書かれる」必要性もない。読者は書いた本人であるから、概念のズレも気にしなくて良い。

もっとも、そうしたアウトプットは好き勝手に書くものであり、無自覚的であるがゆえに、自分の無意識を知る手段にもなり得る。文章が書かれる際に、最初にするべき推敲は「自分が伝えたいと思っている内容を精密に概念化すること」であるから、ここの作業と非常に似通っている。就職活動でも最初に来るべきものが業界研究や会社研究ではなく、自己分析である理屈と同じである。