学際知の地平

ポストモダン・ポストナショナル・ポストグーテンベルク・ポストヒューマンな時代に不気味な民主主義を考える

思想・思考という木から落ちる言の葉①

1ヶ月ぶり以上の更新である。

僕は常日頃から「言葉を大切にして文章を書こう」と言っています。それは、「文章を書く」という行為そのものが「小さな思考」の表出であり、その小さきものの積み重ねが「思想」になると思っているからです。逆説的ですが、思考力を身に付ける訓練とは、「文章を書く」という行為が最上であり、それこそがもっとも総合的に思考の穴を見つけやすい方法だと信じています。

このことは、「言葉」を選んでいれば、その人の生活をも変える力になるということでもあります。マザー・テレサの言葉に次のようなものがあります。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 換言すれば、「てやんでぇ、しゃらくせぇ」と口にしている人は、それにふさわしい思考、行動、習慣、性格、運命を持つということです。いわゆる「下町の江戸っ子」となれば、自ずと人との出会い・体験なども「上方商人」とは違ったものになるでしょう。同様に、常に敬語を用いる人は、固い思考、冒険のない行動、前例踏襲的な習慣、おとなしい性格となり、そう周囲から見られることで運命をもそうしたものになるでしょう。TPO(時と場合と場所)に応じて、敬語以外も使っていく中庸の姿勢こそ大事だということは言うまでもありませんが、「人となり」を決めてしまうのは、やはり言葉に負うところが大きいでしょう。

その「言葉」に気をつけるということですが、「言葉」の最小単位は「単語」です。「文体」よりも、もっと根源的な要素です。同じ場所を指しても、「トイレ」、「お手洗い」、「便所」、「厠」、「雪隠」、「はばかり」、「手水」、「ご不浄」、「閑所」という、どの言葉を用いるかで「人となり」、つまりは思想が垣間見られます。「トイレ」から「厠」までは比較的知っている人も多い言葉です。「厠」が和風建築で用いられるのも、「トイレ」と書くよりは雰囲気を出せるからで、「人となり」ならぬ「店となり」を表そうとの意図を読み取れます。

「雪隠」は、学校の古文の授業で扱われることもあり、ちょっとふざけてユーモラスに言うときなどに使う傾向があるように感じます。逆に、今の時代、「はばかり」、「手水」、「ご不浄」はなかなか通じない言葉であり、これらを使う人は気取っているとか嫌らしい性格の人と思われそうです。「閑所」にいたっては、いわずもがなです。社会的にほとんど通用しない言葉遣いは、もはやコミュニケーションツールとしての「言葉」の役割を放棄しているかのようで、意思疎通を図ろうという意思さえ疑わしくなります。こうした言葉遣いからは、他者へ対する気持ちが読み取れます。

たとえば、「閑所」という言葉を使うことで、それを知らない他者を下に見て安心を得ようとする「劣等感」のようなものを見いだせると思います。もっとも、これは自分も何かのきっかけでたまたま知らない言葉に出逢い、それをさも以前より知っていたかのように使って自らを喧伝している自己承認欲求の表れの1つです。その言葉を知っている人は「賢い」とか「知識人」と感じる性格をもっていると表明していることになります。そして、自分はそれに憧れている、と。他者による自己の認識をそういうものにしたいとの希望が出ています。しかし、残念ながら、往々にして、その承認欲求は「なんだ、こいつ?変なヤツだ」で片付けられてしまうことも多いですね。そして、ますますエスカレートしてしまう。そうした事例には事欠かないでしょう。

このように書いてくると、「よし、では言葉に気をつけよう」となると思うのですが、思考を深めようとした場合、哲学的とまではいかなくても学術的に精緻に表現しようとなれば、さらに「気をつける度合い」が高まります。しかし、これは学術的ではなく日常的にも必要な注意事項で、日常生活においても起きうるミスに繋がります。次回の投稿では、このあたりを考察してみようと思います。